本

『私をくいとめて』

ホンとの本

『私をくいとめて』
綿矢りさ
朝日新聞出版
\1400+
2017.1.

 綿矢りさの本を読み続けている。芥川賞の最年少受賞者であることと、たぶんルックスもよかったことで、作品はその後もよく読まれている。映画化されたものが多く、本作もそうである。
 綿矢りさの作品は、最初の一文に注目すべきだと考えている。「実験室と台所の中間のような空間に、私たち生徒は集められた。」結局ここは、食品サンプル製作の教室である。このエピソードは、話の展開の中で、ほんの一瞬しか再来しない。だが、私には何かとても重みをもって響いてくる。
 この帰りに、最初の「A」との対話がいきなり始まる。「Aはもう一人の私なのだ」とその正体も明かしてしまう。これがやはり特にユニークな設定であろう。この二人の対話は、かなりリアルである。本当に誰か親しい友だちと会話をしているかのようにも聞こえる。もちろん、Aは主人公、黒田みつ子の想像上の分身であって、他の人格ではない。だから恰も友だちのように見えてしまうということは、これは多重人格にも匹敵するものと見えても仕方がない。
 みつ子は32歳。「おひとりさま」である。結婚に興味があるようには見えない。「一人で生き続けてゆくことになんの抵抗もない、と思っていた」のである。時にその人生観を少しく長く語る場面が目立つ綿矢りさだが、それが、分かりやすく主人公の思考を教えてくれることになっている。本当なら、場面場面での言動から、徐々にそれを探り出してゆくべきものかもしれないが、これはやはりよいテンポを生むものである。また、それが作風とでもいうものでもあるだろう。
 取引先の営業担当は多田くんという年下の男性。そう、みつ子は淡い恋心を抱いている自分に気づくのだ。そして多田くんの反応も悪くない。だが、自分から果たして何ができるというのだろう。そのもやもやとした気持ちが、物語をずっと流れてゆく。
 人間の感情は、簡単な公式のようなもので説明できるわけではない。いくら人生観を吐露したところで、それが何かを決定するというようなものではない。たとえ心が揺れ動く物語があったとしても、あれかこれかの間を動く、というように、ターゲットがはっきりしている。しかし、みつ子の場合は、何を選ぼうとしているかさえ、ぼんやりしている。
 それは考えてみれば、私たちの人生のリアリティにも感じられる。ただ、みつ子の場合、「A」にいつも相談をするのだ。
 これはもしかすると、分身の存在とは幾らか違ったものとして、書かれた時代から10年後の私たちには見えてきて仕方がないのではないだろうか。生成AIに、だんだんと頼るようになってきている。ひとには言えないような相談も、こっそり生成AIになら、尋ねることができる。しかも、ありとあらゆるウェブ上の情報を探し回って返答をしてくれるものだから、それなりに信頼が置ける。こうして、次第に自分で物事を考えることが煩わしくなるような体質に変わってゆき、何かあるとすぐに、とりあえず生成AIに訊く、という方向にずるずるとのめりこんでゆくことが懸念されている。
 しかし、本作の「A」はそれとは違う。みつ子は、少なくとも自分で考え、悩む。Aの言いなりになるのではなく、対話をしている。そして最後には、Aの現れない方向へと進んでゆく。自分で勇気ある判断をしてゆくことになったのではないか。
 こういう存在を「レプリカ」という名で取り出したアニメが、2026年時点で放映されている。「レプリカだって、恋をする」という。今後、こうした作風が、さらに展開するのではないか、という予感がしている。が、本作の場合、まだ健全にAが働いているような気がしてならないのだが、如何だろうか。
 結婚してイタリアの家庭に嫁いだ大学時代の友人の誘いで、後半独りでイタリアに旅するシーンが長く続く。イタリアでは、Aと殆ど話をしていない。これがみつ子にとって、ひとつ壁を超える機会となったのであろう。帰国後、確かに事態は急展開する。
 さて、タイトルの意味を特定するのは解釈に過ぎるから、本当はこういう場ではやめておいた方がよいかもしれないのだが、何が「くいとめて」いるのか、そこはやはりAが何かしらくいとめているのだろう。しかしまた、みつ子自身も、勇気をもてずに「くいとめて」いる状態であることを含んでいるようにも見える。しかし、「くいとめて」いた、という過去形で語ることができるような次へのステップが、果たして待っているのか、それとも物語のこの先が、うまくゆかないのか、それは読者の心の中に、きっと描かれてよいものなのだろう。
 最後に、『手のひらの京』で、京都にずっと住みついている人が「大文字焼き」という言葉をあたりまえに使っていることに抵抗をもった私である。もちろん綿矢りさは生粋の京都人であるから、そのくらいのことは分かっていて、何か意味をもたせて書いているのではないか、というくらいの想像はできる。ただ、本作で、「スチュワーデス」という語を繰り返し使っているのは、どうしたわけだろう。すでに本作発表より20年以上前から、日本で「スチュワーデス」という言葉は使われなくなっている。物語に年代設定はないかもしれないが、そんなに昔の場にわざわざ決めたようには思えない。綿谷作品には、時折、引っかかる言葉の使い方があるけれども、その謎の答えが知りたい気がする。この数年前のドイツやイタリアへの講演旅行のレポートでも、やはり当人が「スチュワーデス」という語を使っていたところを見ると、これは作品のための設定ではないように思えるのだが、どうなのだろう。




Takapan
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