『ほんとはこわい「やさしさ社会」』
森真一
ちくまプリマー新書074
\780+
2008.1
ちくまプリマー新書は、中高生へ向けてのメッセージである。が、それは説明の仕方を丁寧にしたという意味で、内容そのものが易しいわけではないと思う。また、学術的な証拠を持ち出して議論するのではなく、筆者の確信のようなところをずばり見せてくれる点で、まどろっこしくない。もちろんそれなりに、調査や研究を重ねて言明しているはずであるから、ただの思いつきで言い放つような一部の人気者とは訳が違う。今回も、大学の社会学科の教授である。立場上のこともあり、いい加減なことを述べているわけではない。
というわけで、社会学的観点が強いものではあるにしても、若い世代に語りかける題材をふんだんに用いながら、今の世の中に漂う空気のようなものを、読者に強く意識させようとしている。それは、誰もが気づいているようなことでありながら、言語化できないことを言語化する、という、学者に相応しい仕事でもある。
たとえば、イエ・国家・会社という三段階を提示して、これまで日本人が何のために生きてきたのかを突きつけていたのは、鋭かった。かつてのイエの束縛を解こうとしたら、そこに国家のために命を棄てるという大義名分が割り込んできた。その道徳が否定されても、なお会社のために命を失うのが美徳だという精神が常識化されてきた。だがそれも問題だとなると、今度は自分のために生きるということが、いま当然のこととして受け容れられているような気配がある。私が「神のため」というフレーズを入れようとしても、たぶん人はせせら笑うだけなのだろうが、だからといって「自分のため」でよいのかどうか、定まっているわけではないはずであるが。
テーマは「やさしさ」である。しかし読者が百様に思い描く意味で語っても何も伝わらないし、何の成果ももたらさない。そのため、初めに「やさしいきびしさ」と「きびしいやさしと」との違いを持ち出して、本書で取り上げる「やさしさ」を、後者に限定するという手続きを行う。しかし、単純にそのように分けたのではなくて、「やさしさ」の特質を表現するために、この後「予防としてのやさしさ」という概念も重ねられ、「やさしさ」が非公式ながら一定のルールとなっているという現象の本質を指摘します。
こうした捉え方が、具体的な例のうまい取り上げ方によって読者に迫る様子を、私はこのスペースで再現することはできない。直接お手に取ってお楽しみ戴きたい。
ただ、電車の中で居眠りのふりをするのが「やさしさ」だ、という説を掲げる心理だけはご紹介しよう。お年寄りが元気である、年寄り扱いすると気を悪くするんじゃないか、そういうところを考えているわけなんだけど、この「やさしさ」を理解できない大人なんかが非難の目でジロジロ見るから寝たふりをするんだ。こんな言い分である。確かに、譲られるような歳ではない、と怒る人が皆無なわけではない。だが、席を代わることを控えるというのは、気を悪くさせないための「やさしさ」であり、先に挙げた「予防としてのやさしさ」というのは、例えばこういうことを言うのである。
何らかの対等性を優先するために「キャラ」を立てるなど、特に若い世代のものの考え方にズバリと斬り込んでいく議論は、もしかするとその若者たちから「決めつけるなよ」と反抗されそうなほどに、はっきりと告げる。果たしてこの著者の切り込み方が届くのかどうか、それは読者に広く聞いてみたいことである。
執筆したときにはまだ50歳手前だったはずの著者自身が、果たしてどういう「やさしさ」のスタンスに立っているのか、知りたい気がする。「やさしいきびしさ」をもたらしているようにも読めるのであるが、しかし著者はそうした点についてもはっきり触れている。つまり、こうした新しいタイプの「やさしさ」を批判しているのではない、ということだ。
それどころか、著者自身が、本書を自己分析の一環として見ていることを、「あとがき」で明らかにしている。自分にとって切実な問題であったからこそ、これだけの考察を施していた、という種明かしである。著者の世代のことは、感じられないこともない。そして私もまた、その過程を顧みて、なるほどと思えることが多いと感じたのだ。
しかし、本当にいまの世の中はそうなのだろうか。私はまた、少し違うような気がしてならない。マナーの悪い人を注意したくなる年配の人々、しかしそれが通用しないことを覚っているという世情、あるいはまた、逆ギレされるのも嫌だという遠慮のようなもの。確かに、本書が告げているようなことは、よく理解できる。そして著者や私の世代の者が、若い頃から「やさしさの時代」のようなものを感じていたのも事実である。だが、その「やさしさ」は、子どもの教育に失敗しているかもしれない、と危惧するのである。
私などは、だいぶ子どもに甘いし、好きなようにさせてきた。まさに「やさしさ」で子育てをしてきたつもりである。だが、それは子どもたちの評価とは異なる。子どもたちから見れば私は「頑固親父」であり、怖くて逆らえない相手であるようなのだ。
本書では、親から子どもを見る眼差しで考察が進んでいる。子ども世代からの「やさしさ」は、伝聞的に描かれる傾向がある。やむを得ないとは思う。だが、それだけの視点であれば、この「やさしさ」の功罪や行方というものは、半分しか捉えられていないのではないか、と思うのだ。世の中の様々な現象をうまく説明しようと努めていることは理解できるが、あれもこれもを現象的にああだからこうだからと述べつつ、あまりに大雑把に世の中はこうだとカタログのように示しても、対処法が浮かんでこないのではないか。それでは私たちはどうすればよいのか。このまま流れに任せることでよいのか。「やさしさ」の社会は、いじめを止められず、抑制が効かない攻撃は終わらない、というのが結論であるならば、私たちは途方に暮れるしかないような気がする。
確かに、パーフェクトを目指して尤もらしいことをコメントすることで、いい顔ができた、というふうなコメンテーターは要らない。だが、「条件つき攻撃の必要性を多くのひとが認識して、文化としての「智恵」を継承していくのが大切なことだ」というのが著者の答えだとすると、結局何も言わなかったに等しいのではないか、という不満が残る。そこには著者の構えもある。「適当な「解答」を述べて終わらせるよりは、このほうがましかな、と考えた」というのであるが、これからまたこの課題にとりくむ、という自分へのエールで終わることをよしとするのであっては、何のための本だったのか、ということになりかねない。
読者はどう思うか。読者ならどうするか。君は、この本で自分が指摘した世界の中にいるのか。いるとすれば、どこにいるのか。そこで君に見えるものは何か。君はそこからどうしたらよいと思うか。読者の心に、熱烈に問いかけるものがあって然るべきではなかったか、と私は考える。読者に問うことを控えた著者は、やはりその「やさしさ」の中に浸っているのかもしれない。「やさしいきびしさ」を復権させてもよかったのではあるまいか。