『ことばの教育を問いなおす』
鳥飼玖美子・苅谷夏子・苅谷剛彦
ちくま新書1455
\840+
2019.12.
「国語・英語の現在と未来」というサブタイトルのもとに、三人が「対話」ならぬ「対書」を試みたという形で成立した新書である。一人が記す、それを読んで次の一人が記す、それを読んで……という形で、対話のようにしながら、話が展開していくのである。
話題はことばの教育、まさにそのことである。鳥飼さんが英語の方面でよく発言していることは一般にもかなり知られていようかと思う。苅谷夏子さんは、大村はま先生の教え子である。そして、その大村はま先生のことを知り感動した鳥飼さんについて、苅谷夏子さんが結びついていった経緯があるらしい。苅谷剛彦さんはオックスフォード大学教授で、社会学の角度から、教育に対する発言を多くしているようである。
一人が、新書で20頁余りの叙述を呈する。それに呼応して次の話が始まる。実は巻末の「おわりに」に、この本の要旨がきれいにまとめてあるので、私が何かまとめようとしても、そこをただ右から左に移すだけということになりそうなので、遠慮することにする。ただ、そこでも触れられているが、本書を1冊の本とした場合に、必ずしも概念や考え方がひとつに定まっているいるわけではない。しかし、それこそ「対話」の醍醐味でもあるし、他の考えを受けてまた考えが生まれ、展開していくというところに、生き生きとした流れができるならば、読者はむしろそれをうんと楽しめるものとなるだろうことは請け合うものである。
苅谷夏子さんは、やはり大村先生の教え子であるから、国語というフィールドで、国語教育を見つめている。最初にここで、言語が「OS」であるという概念設定がなされた。これが本書で最後までかなり響く。言語活動が人間に備わるのは、まだどの言語かは決まらないうちにも、何か特定のOSが、言語活動をするように設定されているのではないか、という喩えである。それは、同じ大村先生の授業を知るある人が口にした考えであるという。しかしそれがなかなかぴったりときたので、言語活動を捉えるひとつのキーにしたらしいのである。
これは考えていくと、哲学的題材として面白い。もし科学的に、何かそうした人間の思考枠のようなものが、物質レベルで説明されるのなら、それはそれで面白いのだが、それは難しいかもしれない。それよりは心理学というレベルで迫るほうが、可能性が出てくるだろうか。もはや超越論的哲学などという図式で、人間の認識能力自体を解明していくというようなことは、現代では望めないだろう。しかし、何らかの科学的な探究を伴いながら、かつての哲学的思索において、言語を生み出すOSへと光が当たる時代がくるかもしれない。それは、言語分析哲学が切り拓いた分野をも巻き込んでいくことになるはずだから、言語に注目した20世紀の哲学が、意外にも言語教育という領域で活躍するようなことになるかもしれない。
本書の中でも、このOSという発想は受け容れられて何かと用いられることになるが、しかし巻末で触れられていたように、論者によりそれの認識は微妙にズレがある。ただ、そのズレを無理にひとつにしようとするのではなく、それぞれの認識の中で捉えたものが、一定の範囲で共有できているならば、それはそれで面白いのではないか、という提言がそこにはあったように思う。私はそれでよいと思う。後は読者が問題意識をもてばよいのだ。小さな新書が、重大なことを解明する場になるようには考えにくい。まとまっていないからつまらない、などと本を評する者も世の中にはいるが、それは自分で考えを進めていこう、広めていこう、とする気概のない者が、他人に考えさせようとしているだけのぼやきである場合が多い。
中途で、演繹と帰納という概念も駆使される。この辺りで、思考法そのものに触れていくので、もはや国語だ、英語だ、という区別はなくなる観がある。解釈だとか通訳だとかいうレベルの話も現れ、より言語そのものへと関心が向かう場面もある。しかし、やはり本書の要は「教育」である。最後の方面はこの教育への眼差しが熱く走る。但し、生徒と教師というような関係の中での出来事にせず、あくまでも言語教育に焦点を当てたい模様であった。
それは現実的には、大学入試改革の問題にも言及しなければならなくなる。記述式問題を出すなどと、センセーショナルに改革が宣言されたものの、現実的な路線がついに作られ得なかった問題に加えて、果たして英語の4技能が目指すものと、英語を用いた形ではあるが言語能力というものとは、相応しているのかどうか、強く問うものとなっていた。中身がないのに話す能力を高めようだなどというのは、確かに愚の骨頂である。自分の中にある思想しか、人間は出せない。自分の中に豊かに蓄えられたものがまずなければ、出せるものなどないのである。だから、本書の言葉で言えば、先ず「読むこと」から育んでいかなければならないというが、ご尤もである。但し、感覚的に「出す」というものの訓練がすべて意味がない、とは思えない。明確なボリシーを以て、目的を異とすることが意識されることの必要性をも私は感じた。
いずれにしても、ここから読者が一定の知識や学説、また実践者の経験などをよく受け止め、そこから新たな道を拓いていくようにしていかなければならない。但し、現実に改革という名でもしも改悪しかなされないような教育制度が大手を振って突き進まないように、監視していかなくてはならないのも確かではある。