『こころの科学226 2022.11Nov 「助けて」が言えない子ども編』
松本俊彦編
日本評論社
\1360+
2022.11.
以前に大人一般の特集があったらしい。今回特別企画ということで、それを「子ども」のフィールドで検討する本となった。
困っているのだったら、言えばいい。このように思うのは、強い立場にいる人間である。このスタンスが基本的に貫かれていると言えるだろう。言えないから、困っているのだ。しかも、言えばいい、と思っている者こそが、言えなくさせている当事者なのだ、ということに気づかないでいるという構図がある。これを、私たちは認識する必要がある。
これは、宗教的な「罪」に似ている。自分では罪だとは気づかないのだ。罪とはそういう者である。困っている者にマウントを取るような姿勢であることに、気づかないのである。
今回は特に、対象が子どもである。自分の感情や置かれた情況を、言葉に出して言うということそのものが、難しいのである。一体「言語化」するというのは、なんとハードルの高いことなのだろう。深層の上にわずかに出た氷山の一角であるような言葉というものは、様々な思いを抽象してようやく見える形になるのが言語である。しかもその言語から深層を知ることには、決定的な限界がある。子どもたちには、その言語において乏しいところがあり、ようやく出て来たとしても、そこからその深層を知ることがさらに阻害される。
だから、その現れというのが、たとえば自傷という形になることもある。親に言えないのは、親に迷惑をかけたくないという優しさの故である場合もある。自分のせい、自分の責任のように思ってしまうと、出口が見出されなくなることもある。また、そのように教育されているというところから、そうなるのかもしれない。大人たちは、もっと想像しなければならない。
不登校はようやく以前よりも認められるようになったとはいえ、学校社会という大前提がある以上、居心地のよいものではないだろう。そこでゲームの世界に没頭するとすると、そこが救いである状態なのかもしれない。
少年院経験者への社会のつれなさ、余命の短い子どもがその心を出せないこと、様々なケースが取り上げられ、はらはらしながら読むしかなかった。
また、後半は正にその当事者である子ども、あるいは青年に向けて語られるようなものも多々収められている。どこまで本人がこれに触れる機会があるかは分からないが、手にした大人から、その子どもたちに、何らかの形で橋渡しができたらよいのではないかとも思う。中にはかなり過激な呼びかけもあるが、それが本音でもあるし、大人がとことん悪く言われても、甘んじて受けなければならないだろうという気がする。
そして一番私が戒めなければならないのは、これを少し読んだくらいで、何かが分かったなどという顔をしてはならない、ということだ。そういうのがいけないことなのだ。いざ自分が「助けて」と言いたいのに、言えないという情況になったとき、初めて分かるようなことがここにあるのだ、というふうに捉えるべきなのだろうと思う。
でも、それでも、思う。私もそういう情況になっていたのだ、と。あのときにも、「助けて」と言わねばならないのであった。そして、それが言えたのが、神の前であった、ということだ。あの苦しさが、いまは超えられたとはいえ、疵が残っていないわけではないだろう。だとすれば、私がこの本を読んでいて息苦しくなったのも、そのせいなのかもしれない。共感する、などと傲慢なことは言わない。けれども、私もまたそうした道にいたことがあるのだ、というようには、言ってはならないだろうか。辛すぎるあなたに寄り添える方は、聖書の中から出会えるその方であるだろうと思う。私のような一介の人間に何が分かるというものではない。しかし、あなたを分かってくださる方は、確かにいる、ということだけを指し示したい。
それは「こころの科学」に収まらないかもしれない。けれども、「科学」であろうが、ここには温かな人の心が満ちあふれている。私が指し示したい道への入口まで導いてくれる、そういう「こころ」が詰まっている本だと思いたい。いけないだろうか。