『<希望>の心理学』
白井利明
講談社現代新書1577
\660+
2001.11.
講談社現代新書の以前のデザインのものが届いた。懐かしい。ひとが生きるには希望が必要だ、と表紙から伝えるものがある。絶望を乗り越え、未来を構想しよう、というのである。うれしいメッセージである。
新書という形式は、「注」を参照させない、というのが基本だそうである。一読して読み進めていけるものであるべきだ、というのだ。しかも、元来高校生ですんなり読める、というのがコンセプトであったらしいが、とてもいまの時代はそのようなことは言えない。大学生でも怪しいかもしれない。だが、本書は、かなり読みやすく仕上がっているのではないかと思う。
著者は、教育大学で心理学を教えている人である。それを知って、なるほど、と思った。よく行き届いた配慮が感じられ、最後には本書で辿った道を振り返る場面もある。構成がはっきりしていて、主張も明確なので、たいへん分かりやすいのである。
それで、ここでその全部を晒してしまってよいものかどうか、という葛藤が私に起こる。関心をおもちの方には、ぜひ全部辿って戴きたい、という願いを掲げた上で、注目すべきところはお伝えしたいと思う。
サブタイトルには「時間的展望をどうもつか」とあるが、読み始めると忘れるかもしれない。できれば覚えておくと、話の展開の中で何に重きが置かれているか、より明確に押さえながら読み進めるのではないだろうか。また、最初のほうでも説明されているが、「希望」というものを心理学的に考察するのが、本書の役割である。「希望」となると、哲学的にも宗教的にも、非常に関心の深い対象である。だが、心理学の領域に留まることを断っている。もちろん、それが正解である。それだからこそ、それを了解すれば、楽しく読めるのである。
まず時間的展望という考え方をゆっくり説明する。本書の要となる概念だからだ。そのとき「過去に誇りをもち、未来の希望があると、現実がどんなに厳しくても、それに耐えたり打開のための努力を持続できたりする」と述べ、「時間的展望の獲得が絶望から人間を救う」と告げている。現代の中に、希望が失われているのではないか、という態度からスタートするので、そうではない、と思う人には少しハードルが高くなってしまうかもしれないが、そこは著者の語りにお付き合い願いたい。なにも現代が希望のない絶望の時代だ、と断定しているわけではないからである。
また、トラウマのように、忘れたくてもどうしても忘れられないものに束縛され、辛い思いをしている人もいるわけで、たんに希望をもちましょう、などと言いたいわけでもない。心にそうした暗い部分を重くもっているひとも、焦らずにもうしばらく論の展開に付き合って戴きたい。
本書にはたくさんの実例がある。辛い体験や、それから抜け出すストーリーが多々寄せられている。それを好意的に辿ることによって、もしかすると傷ついた読者も、癒やされるかもしれない、と期待したい。
幾人かの心理学者などの説が次々と登場する。だが一つひとつが丁寧に解説されているから、学者の名前を覚えていかなくても構わない。希望を見いだせるような「心」が得られるように、旅する道が備えられているのである。しかも、抽象的な議論を展開しようとするものではなく、あくまでも人が生きる現場で、その心に浮かぶこと、浮かべたらよいこと、それをクエストしていくのである。
時間的展望と言った。それは、将来の時間をどのように見つめるか、という方向で捉えてよいであろう。「将来の夢」というお題で想像し、作文に書いたとしよう。それが子どもと若者、そして壮年や老年の人となると、当然違ってくるだろう。また、これは最後のところで現れるものだが、一人のひとの夢がどう変遷していくかというデータも面白い。非現実的なものから、いろいろ揺れながらもひとつの方向に進んでいくのであるが、そこにその人の「テーマ」というものがあるのだ、というようにも記される。自分では意識できていなかったかもしれないが、並べていくと、それが見えてくるのが面白い。
こうした研究の成果が随所で利用される。読んでいるだけで、なんだか希望が与えられるような気さえする。
フランクルの指摘で有名になったが、「人生が各人を期待している」のであって、「人生が各人に課する使命を果たす」という道に気づいたら、幸福であるのかもしれない。そこに、希望が確かにある、ということなのかもしれない。
不安を覚えたり、不愉快になったりもする。立ち上がれないほど落ちこむことも、現実にあるに違いない。だが、それが希望を失わせるかというと、著者はそうではない、と考えたいはずである。そして、現実と向き合うことを勧める。但し援助者がいるとよい。
しっかりと自分を認める。キリスト教であったら、そこに「罪」という言葉を入れるであろう。そして罪からの救いを、イエス・キリストと出会うことで見出していくことになるであろう。しかし、そのような要素を掲げるのではなく、そうした構造だけを取り出したとしたら、本書の語る心理学的な希望への眼差しというものは、案外かなり近いものであるような気がする。もちろん、比喩的にさしあたり理解して戴きたいとは思うが。
後半で、「未来指向」と「現在指向」とが対比されて説明されるのも印象的であった。前者は、現在を未来の幸福のために結びつけて考える心理であり、後者は現在を生きることに大きな価値を置き、いまが大切だということを優先する心理である。日本は概ね後者であるという。他者との関係を重視するタイプがそうなりやすいという。前者は、むしろ欧米の個人主義と重なるものであろう。
その先にはまた、興味深い問題があった。あっという間に過ぎるように時間を感じることがあるのは何故か。そこに、心が「時を刻む」やり方が関わるというのである。私たちは、「人生に刻みを入れて、生きる喜びをかみしめ、過去を振り返り、未来を構想するために、区切りを入れる時間が必要」なのである。
最後には、過去をどう見るかということに触れられる。亡くなった人がもういないのではなくて、「死者とともに生きる」ということが、私たちには可能なのだ、と勇気づけてくれ。それは悲しい別れを味わった人への福音であるとともに、イエスがともに生きている、ということとつながるように、勝手に私は考えた。イエスが復活したというのは、確かにイエスがいまもともに生きているということと、やはりリンクするのである。
辛い過去をお持ちの方のためには、この最後のところが、最も心に響くかもしれない。個人としての私たちも、誰か他者と出会うことの中で、それぞれが異なった存在であるままに、つながっていくこと、この世界を共有していくこと、そこに気づかされていくと、それがそのまま希望になるのだという、明るい気持ちになってゆくのだった。
途中でも触れたが、こうした心理学において希望へと道を拓く過程は、私には、キリスト教の基本がずっと寄り添っているように思えてならなかった。本書には聖書のことは全く触れられていないが、私はそのようなことを、自由に考えていた。これは礼拝説教を担う方々には、恰好の思索の経験となるのではないだろうか、という感想をもった。