本

『希望の倫理』

ホンとの本

『希望の倫理』
ユルゲン・モルトマン
福嶋揚訳
新教出版社
\4000+
2016.12.

 なかなかの大部である。キーワードはもちろん「希望」。半世紀前の著書『希望の神学』の続編、あるいは完結編というから驚きである。
 タイトルの語は「倫理学」とも訳せるし、前著との繋がりからするとそう訳したほうがすっきりしそうでもあるが、堅苦しい印象を与える必要がない内容だとの訳者の判断で、「倫理」で止めることにしたという。
 前著からの時代は、ひとつには「解放の神学」が大きく話題になった経緯がある。また、科学の進展ではたとえば人類の存亡の危機があったり、生命倫理が現実的な技術を伴って検討される必要になったりしたことが大きいだろうか。元来「終末論」に傾いていた著者の眼差しは、この事態に大きく反応せざるを得なかったし、新たな地平で自身の考えを強固に組み立てなければならなかったものと思われる。「危機に直面しながら希望の勇気をもって今日と明日なすべきことを論ずる」という、「はじめに」に掲げられた宣言は、確かに本書を貫いている。これを「希望の地平において行動しようと提案する」ことだ、とも言っている。
 しかし、著者のミッションとしては、それをただ一般的な倫理として語ることではない。「自覚的なキリスト教倫理」であろうとするのだ。一体、キリスト教が、この世界の運命に関わることについて、どれほど提言できるのだろうか。世界人口の三分の一がキリスト教に理解があるにしても、それが全世界のすべての人を巻き込むことが、果たして許されるのであろうか。
 けれども、何らかの足場があってこそ、信念を持って提言できる、ということは確かにある。著者は「剣から鋤を作り出すこと」を目指す。それは、終末を見据えてのことである。聖書の終末を見つめての主張でなければ、この態度は無意味となるであろう。だからこれはやはり、キリスト教的な思想であるに違いない。が、キリスト教的な前提が何らかの理由で否まれようとも、意義ある思想になることが、望まれている。教義に基づくだけではないからこそ、それが期待できるのであるし、タイトルの通りに「倫理」であるのだろう。
 但し、著者自身が告白しているように、本書はカトリックの見解を取り入れることはできていないだろう。こうした断り書きは、ひとつの誠実さの現れとして評価したい。カトリックや正教会など、キリスト教の範疇には、いろいろな立場があり、いろいろな見解がある。それでも、本書はやはり「キリスト教」という言い方で通しているから、この「はじめに」の弁解は、もっと強調されて掲げられるべきではあるだろう。
 さて、私は本書の価値を評するような能力はないので、何が書かれてあるのか、をご紹介することにしよう。最初にカントが掲げた「何を希望することができるか」という問いから始まっているのは、本書の基本的な問いであることからしても妥当であろうが、このようにテーマの「希望」については、やはり根本的な問いかけが必要である。祈ることと目覚めていること、待つことと急ぐこと、というように、早く内容を知りたい読者からすればもったいぶった話がもう少し続くが、やはりそれは大切に見ていきたいところである。
 そして本論は、いきなり核心的な終末論において始まる。これはキリスト教の解説に他ならない。
 次章は生命倫理についてである。それは核の脅威から生態系の問題も含む。だから医療倫理についてはむしろその後に小さく載る程度である。そして医学と生命についての神学的な議論が続く。バイオテクノロジーのもたらす問題を社会的に検討していくような場面ではなかったようだ。
 倫理は地球規模にも及ぶ。生態系の問題は、むしろここで大きく検討される。人間はどうあっても、環境の中では破壊者たる位置にあると考えざるをえない。シュヴァイツァーの「生命への畏敬」も軽く扱われ、むしろ人間の責任を問う場面が多いが、あまり深刻さは感じられなかった。だからこその「希望」であるのかもしれない。
 この後平和の倫理が問われ、力が入る。これは人間同士で、まだ如何様にも改善できることであるものと思われる。キーワードは「正義」である。私たちは正義を掲げて判断し、論敵を凌ごうとする。これが国家間で起こると、現代では破滅的な破壊行為となることが懸念される。いったい正義とは何なのか。これには、西欧伝統のギリシア哲学も検討すべきところであるはずなのだが、著者はあくまでもキリスト教の立場で、聖書とその文化を、根拠に話を展開してゆく。それはそれで、本書の道筋に合っていると思うので、構わないだろうと思う。そのため、これを抜け出して希望を掲げる筋道も、当然聖書における希望ということに流れていく。それが正に地球規模の希望になっていくのかどうか、疑問もあるが、あくまでも本書のスタンスはそこにあるのだから、そこに徹することは大切な営みであったと理解すべきだろう。
 しかし、現実的には様々なイデオロギーがあり、戦争の正義についても真摯に問わなければなるまい。そこにキリスト教はどう関与しているのだろうか。そして、キリスト教はそこからどう希望を拓いていくことができるのだろうか。社会的な視点も交えながら、著者の眼差しは、最終的にきわめて神学色の強い領域に入っていく。
 聖書の安息日とは何だったのか。キリストの復活には何の希望を懐くことができるか。現実に容易にはなくせない争いというものを、単純に消そうとするのではなく、人間の世界にはそれがあることを前提にして、なおかつ平和へと希望をもつことができるのか。できるならば、それは如何にしてか。こうなると、どうしてもキリスト教の「信仰」という領域を含めなければ、考察すらできないものと思われる。
 だから、本書はやはりかつての書との連続の中にあるのであり、「希望の神学的倫理」として、いくらか間口を広げた面は認められるが、そこにあるのは聖書を読み解くことにほかならない。聖書を手にする者の責任が、ここから始まるものとして、私たちが行動していく必要が迫られていると考えたい。
 なお、最後に置かれた「訳者解説」が、実に優れている。本書の内容を概観しつつ、どこに強調を見るべきか、またその背景には何があるか、的確に指摘していると思う。案外、これを先に読んでから本論を辿る、という読み方をするべきかもしれない。訳文も読みやすく、本書は訳者のファインプレーの結果である、と言いたい。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります