『神を生み出す脳』
藤井修平
ハヤカワ新書059
\1160+
2026.6.
販売商戦というのがあるから、帯には「「推し」は現代の神か?」とたいへん大きな文字で見せている。これなら、「おっ」と手に取る人が増えそうだ。
サブタイトルは「「宗教認知科学」入門」である。著者の専門領域を告げるに相応しい。だから、正道を行くならば、この学問の名を冠せばよいのだ。だがそれでは、売れない。それでも、「推し」を題にしなかったのはよかった。最近はそういう「チャラい」題の本が目立つ。しかし、より知的に、真面目な議論をすべきだという方の題を付けた。それでよいと思う。
頁を開いて「まえがき」が見えたら、そこにはまず「世界の政治情勢に宗教が深く関わっていること」という文字が見える。
そして、『神は妄想である』というドーキンスの本が登場する。「人類はもっと理性的になって、宗教から「卒業」しなくてはならない」という本の結論を提示する。
だが、著者は何も、宗教を否定しようとしているわけではない。ただ、どうして宗教を信じるということが起きているのか、その心のはたらきを明らかにしたいのである。現に宗教は大きな力を世の中に生み出している。いったいどのような仕組みで、それができるのか、説明を試みようとするのである。
いろいろと説明は長い。250頁を超える新書の中に、書かれてある内容はそれほど多岐にわたっているわけではない。だが、説得力をもたせるために、多角的に攻めてくるのは確かだ。いろいろな事例と、いろいろな心理的説明を持ち出して、読者を退屈させない。
さて、本書のタイトルからしても、信仰者としての私がどのように受け止めるのか、興味をもたれた方がいるだろうか。信仰する神の存在を認めず、神を信仰するメカニズムを明らかにしようとする本なのである。
同じことを、クリスチャン全体にも、問うべきであろう。そう。これは、クリスチャンが読んで然るべきなのだ。もちろん、「弱い人」には求めない。この挑発的な言い方だけでもうドキドキしているような人には、決して薦めない。どういうことなのか、理性的に考えようとする人がいい。哲学のできる人がいい。
著者の問いのひとつは、世界中の「宗教」に、類似点が多い、ということであった。これは、人間の心理に於いて、あるいは共通であり得る文化の中に、「宗教」を生み出す理由があったのではないか、というのだ。もちろん新書であり、厳密に論証しようという場ではない。読者は、厳密性を欠きながらも、多様な視野を教えてもらうとよいのだ。
認知という点から宗教を捉えようとするところから始まり、心の仕組みとして、神を想定するシナリオを考えてゆく。また、そこには「物語」というものが関わってくることを指摘し、キリスト教でいえば「証し」という物語の存在に意味があることを示す。「神話」もその中に必要になってくるであろうし、傍流としてかもしれないが「陰謀論」もこの流れから発生するのではないか、とする。
また、宗教には「儀礼」が伴う。それが宗教を堅いものにしてゆくに違いない。平たく言えば、それは「祭り」ということでもある。日常の中にあるような「祭り」だが、それは社会をつくる上でも意味ができてくる。
著者は、マンガやアニメなどにも詳しいことがあり、ときに実例としてあれやこれやのアニメなどを持ち出してくる。私も名前くらいは知っている、というがどっぷりと浸かったことのない作品だと、あまり例示としては役立つものではなかった。が、研究所や文学作品などからも、人類が宗教についていろいろと考えたり感じたりしてきたことを、傍証に使うのは、読者としても楽しいものである。
私にとってはどうしても、手塚治虫の『火の鳥』はベースに置きたいものである。巨大コンピュータ「ハレルヤ」が人類の判断を支配し、世界五つの地下大都市を互いに同時に攻撃して人類が、ひとりを除いて絶滅するという、ショッキングな物語を、半世紀前に描いている。あのとき、そのコンピュータは「神」であったのだろう。そしていま私たちは、それに近づいてゆく生成AIというものをすでに実用化している。これは、人間心理が「神」を生み出すというレベルでの議論よりは、よほど恐ろしいことではないだろうか。
しかし著者は、「神を生み出す脳」という題を掲げつつ、大脳生理学を持ち出すのではないか、という予想を裏切った。そういう手段ではなかった。むしろ心理学や、文化人類学といでもいうような分野からの提言であったように思う。
著者が「あとがき」で指摘したとおり、特に日本では、「人はなぜ神を信じるのか」という問いを立てて正面切って論ずる研究は、殆ど見られない。海外のような深刻さがないからかもしれない。「無宗教」と自認するものの立派に宗教行為は日常的に行うし、何にでも拝みもする。「無神論」とはとても呼べない情況が日本にはあるのだ。そして、最終章でようやく「推し」について持ち出したのだが、宗教の心理や行為と、「推し」に見られるものとの類似や相違を見せて、この曖昧な日本の「神」観念がどういうもので、どこから生まれるのか、ひとつの契機を提案しようとしている。もしかすると、この日本に於ける宗教認知という点に、「推し」の観点が光を当てるかもしれない、ということなのだろう。
確かに神など信じないと言いながらも、地鎮祭を欠かさず、プロスポーツチームがシーズン前に柏手を打つというような、「合理的でないこと」も当たり前のように営んでいる日本人である。それを説明するひとつの糸口として、宗教認知科学というものがあることをアピールするという意味では、著者の目論見は成功しているのではないか。
お分かりだろうか。どうして本書は教会関係者に薦められると私が言うのか。クリスチャンや教会が、日本に於いて宣教しようとするとき、ただ祈るとか、ただ証しをするとか、そういうがむしゃらな自己本位な思いつきでやることがよいのかどうか、考えねばならない。かと言って、アメリカでのやり方をそのまま日本に当てはめようとするのも、おかしいと言えばおかしいのである。人類には普遍的な、宗教を生み出す仕組みがある、とまで著者は言おうとしているのではないような気がする。この日本の情況を、なんとか説明しようともがいているのだ。それなら、日本での宣教を考えようとするクリスチャンや教会は、ここから学ぶものが大きいのではないか、と考えたのである。

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