『神を待ちのぞむ』
シモーヌ・ヴェイユ
田辺保・杉山毅訳
勁草書房
\680
1967.10.
入手したのは1970年発行の第3版。わりと読まれているようで、最近偶然に、複数の論文の中で本書への言及を見たために、探したという具合である。
シモーヌ・ヴェイユ。20世紀前半の哲学者であるが、経歴としては特異なものをもっている。最初は教師を勤めていたが、一時工場労働者を経験する。ナチスから逃れる人々の亡命の手助けをしたり、スペイン内戦に加わったりもしたが、この労働経験の頃に、キリスト教を自らの指針として受け容れる。しかし健康状態が悪く、復職もままならぬうちに、出会ったペラン神父に農業労働を宛がわれた後、執筆活動に邁進するが、肺結核と栄養失調のため、帰らぬ人となった。第二次世界大戦中、34歳の若さだった。
死後に、まとめられたノートが『重力と恩寵』として発行され、広く知られるようになった。政治的な思想が表に出やすいと思われたが、本書は、どっぷりとキリスト教に浸かっている。本書の前半3分の1は、ペラン神父への手紙で占められている。フランス等から神父に宛てた6通の手紙がそれであるが、フランスからアメリカへ向かうときに神父に託した文章も同時にここに集められている。
そういうわけで、これは基本的に皆、神と向き合った彼女の思索を辿り表したものである。1941年に、ドミニコ会修道院長のペラン神父と出会い、ヴェイユは一気にキリスト教に傾く。だが、手紙を見ると分かるように、彼女はとことん、「教会」に入ろうとはしない。そこには、自らの罪を強く思う余りに、教会の入口より向こうには行けない、という思いが強いが、しかし聖書の中に真理を見出し、神とキリストに自らの命を献げるということについては、迷いはないように見える。そして、一般に言われるように、そこにはキリスト教神秘主義に近い捉え方が強く現れているようにも思われる。
確かに宗教体験があるのである。だが、一般のキリスト教世界からすると、それは普通ではないものと受け止められる。但し、そこに「カトリック」というあり方が強く関わってくるのも確かである。「カトリック」という言葉は、「普遍的なもの」を意味する。それを狭い領分でしか捉えないならば、ヴェイユは確かに外れてしまうことだろう。しかし、それを寛容な姿勢で捉えるならば、ヴェイユもまた、神の下で生き働き、神に愛された魂であったと言わざるを得ない。それほどに、神の前に真摯な姿勢が、本書にはよく現れている。手紙を宛てながら、自らの黙想の中に溶けこんでゆくような気持ちにもなっているように見えることさえあるのだ。
不幸の中にこそ神の愛が輝くこと、苦しみを通して愛を感じること、そうした姿勢は、真摯に信仰を貫こうとするものであるに違いない。そしてそのときに、「秘蹟」というものを極めて重要視するところにカトリック信仰が強く現れているのではあるが、それでもなお、地上の教会よりもなお広い、真の普遍的な教会にこそ究極の価値を置くからこそ、普遍的な秘蹟が現行の教会の中でのみ占められるようなところには心から肯くことができなかったのであろう。
純粋に、愛を慕う。それは単に空論をかざそうとするものではないだろう。この世界の美しさを、神の手によるものとして信じ、だが人間ができることは有限でそうした理想を実現するものではないことを弁えているというのは、キリスト教思想としては本当に、純粋な世界への橋渡しをするものであると言えるのかもしれない。
だから、宗教というものが、キリスト教の教義だけで満足するものではなく、たとえば一定の範囲ではあるが、仏教についても知識があり、念仏の中に、主の御名をとなえることを感じるなど、やはりより普遍的な救いというものへの眼差しをもっているのであろうと考えられる。
文書として、「神への暗黙的な愛の種々相」と題する中に挙げられた複数の文章が、本書ではかなり分量を有している。それから「主の祈り」の一つひとつの句についての黙想のような文章があり、ノアの方舟をギリシアなどの地中海文明との関わりを綴った文章が、併せて後半に集められている。
哲学的な思考を有しながら、聖書と神、そして人間を見つめつつ、様々な形で書き記された文章が本書には詰まっている。確かに、何かしら聖書に関する考察をするときに、引用がなされ得るはずだ。だから、偶然かもしれないけれども、私の目の前に、複数、本書に触れるものが同時に現れたのであろう。かつて読まれたように、いまなお、そしていままた、広く読まれることが望まれる本であるかもしれない。私は最初の旧いものを入手したが、「新版」から「新装版」と、近年再び出版されているので、多くの人の目に触れる機会が増えているのは喜ばしい。

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