『「カッコいい」とは何か』
平野啓一郎
講談社現代新書2529
\1000+
2019.7.
若くして芥川賞を受けた著者もいい大人になった。思想的な深みと一定の知識については安心して耳を傾けることができる。それでいて、文学を営むのであれば言い回しについても配慮が行きとどいているであろう。
さらに、これは実に面白い哲学的テーマである。鷲田清一さんが、ファッションを多く取り上げ、またそれについて平易な言葉で考察することを楽しんでいるが、こちらは哲学者ではないけれども、カッコいいという概念を、大衆芸術をも視野に入れ、そこに隠された構造や私たちとがそれを使う心情などを交えつつ、様々に叙述して把握しようとする旅がここに描かれているようなものである。
しかし、著者自身初めに断っているように、章立てはひとつの構築物ではあるが、言いたいことはどこにあり、これに関心のある人はここから読むように、といった読者のアドバイスがなされている。本を読むということについての提言も他の著作でしていたので、読者の立場にも立ちながら、共に問題を味わってほしいということなのかもしれない。せっかくなので、それぞれの章を一気にご紹介しておこう。19頁以降である。
第1章 「カッコいい」という日本語
第2章 趣味は人それぞれか?
第3章 「しびれる」という体感
第4章 「カッコ悪い」ことの不安
第5章 表面的か、実質的か
第6章 アトランティック・クロッシング!
第7章 ダンディズム
第8章 「キリストに倣いて」以降
第9章 それは「男の美学」なのか?
第10章 「カッコいい」のこれから
ここに要約が載せられているので、関心をお持ちならここを眺めると、本書のあらましは分かる。だが、ぜひともそれぞれをめくり、そこに取り上げられた実際の例を愉しまれるとよい。一定の古さをご存じの方は、存分に楽しめるはずだ。アラン・ドロンやビートルズなどのスターから、ジーンズさらにベルボトムの登場など、思い当たる風俗は、きっとその人の一部を形成し、あるいは少なくとも育てることに影響していることだろう。
各章は、眺める立場、パースペクティブあるいは切り口がそれぞれ異なる。構造立ったものというよりは、様々な角度から見つめて探ってみようという考えらしい。筆者のある意味で気紛れに付き合い同行していくツアーのようなものだ。ただ、この「はじめに」にも書いてあるように、第3章の「しびれる」という体感については、この「カッコいい」という概念についての筆者の考えの根幹であるともいえるので、注目しておきたい。
どうしても、元々男性性がつきまとう言葉のようであったが、近年女性についても口にされることがある。そして、日本語の言葉自体は江戸時代にもあったとはいえ、次第にその捉え方は変わってきていることは確かである。英語などでもどれがぴったりくるのかいろいろ検討しているところもあるが、単純には合致させることができない。なんとも不思議な概念であるが、そうした言葉にじっくりと腰を下ろして考察するというのは、大切な試みであると思う。そこから、言葉の謎を解くというよりも、私たちのあり方が問われ、それを客観視するようなことになりうるからである。
つまりは、これは21世紀初頭のいまにおける「カッコいい」という感覚を、ここまでの歴史を踏まえて捉えているわけであって、この先どうなるか分からない。この言葉自体も廃れていったり、意味をずいぶんと変えてしまうことになるのかもしれない。強いて言えば、この「カッコいい」という語そのものを問題にするというよりは、この語を生みだした私たちの精神文化に迫った試みであったのではないだろうか。私たちは何に価値を見出すのか。高貴であるとか、権力があるとか、あるいは聖であるとか、そうした点に最高の価値を置くことも、私たちはできたわけであるし、実際歴史はそうであったかもしれない。しかし、いま肯定的にこの「カッコいい」という言葉が使われているとすれば、大衆文化や通信網の発達と自我の表明の安易な時代の中で、肯定的に受け容れられること、憧れや価値を生むものとして、この言葉を使う私たちを知るような気もするのである。
単純に、見た目の良さ程度しかこの語から思いつかない人は、筆者と共に、そのような精神的な世界にどっぷりと浸かってみることをお勧めする。ずいぶん古い歴史からも、私たちは人間に普遍的な価値観について気づくチャンスを与えられることだろう。
なお、日本と西洋の思想に偏ってしまうのは仕方がないが、それでも新書としては2冊分に十分あたるだけの分量で旅した本書である。贅沢は言わないが、今後はまた、それ以外の文明における「カッコよさ」にも目を向けたら、さらに面白くなるものだと期待したい。