『哲学がわかる 懐疑論』
ダンカン・プリチャード
横路佳幸訳
岩波書店
\2000+
2023.2.
どうやらシリーズであるらしい。「哲学がわかる」シリーズ。時々写真が入るが、まあ殆どが文字である。ただ、哲学的な考え方を、できるだけ平易な事例と言葉遣いで、読者に伝えようとしていることは評価できる。ハウツーで哲学を教えるようなものが流行しているように見える世間だが、これはちゃんとした思考に読者を導くものである。つまり、思考の訓練のために、なかなかしっかりしたものである。
哲学的思考に関心のある人は、ひとつ読んでみてもよいと思う。本としては、訳者の苦労というか、至れり尽くせりの解説というか、配慮が著しい。本編が148頁あるのに対して、訳者の「訳注」と「解説」と「参考文献」が65頁あるのである。3頁分、索引もあるので、利用価値は高い。この訳者の苦労に対して、どれほど読者が関心を示すか、興味深いものである。
実のところ、哲学を教育しない日本においては、そうとうな「注」が必要なのである。デカルトとは誰か、から説明をしないと読めないであろう。増して方法的懐疑とはどういうことか、という点については、そのくらい常識として学んでから学校を出るであろう西欧の教育の仕組みとは異なり、全くのタブラ・ラサで大人になっても何も生きるために困らない日本社会とでは、こうした「訳注」が、言っては悪いが阿呆らしくも必要なのである。プラトンやアリストテレスについても、訳者は説明を施す。それくらいしなければ、このような本は手に取ってもらえないのだろう。ほかにも、本文の論旨を丁寧に解説している「注」もある。そもそも「懐疑論」とは何かということについても、ある程度の理解を前提として述べているであろう本文が、日本の読者には通用しない虞すらある。
これは論文ではない。大衆のための学び直しの本である。ずいぶんとくだけた、分かりやすい内容が書かれているのだと思う。が、日本においてはそうではないというわけだ。それに関してだか、実は最初に「日本語版への序文」なるものがある。日本では、謙虚が美徳とされ、自己主張をしない(著者はソフトに、控えめに自己主張をするというような書き方をしているが、結局は、しないと言いたいのではないか、と懐疑する)文化をもちあげ、西欧ではむしろもっと自分自身に懐疑の目を向ける必要があるのだ、と呟いている。けれども日本では、この自分自身への懐疑が、必要以上になされているという指摘がそこにある。自信喪失にならないように、とだけはアドバイスしているわけである。
この序文に、「程度をわきまえた健全な懐疑論」と「極端で過激な懐疑論」とをうまく見極めることが、本書のテーマであることが述べられている。言ってみれば、本書の内容はこれに尽きる。これが書かれているのだ、とまとめて間違いにはならないだろう。しかし、これもそこに書いていることだが、「どう生きるべきか」を考えるためのステップたりうることが望まれている。このことが、最終章にまとめられているが。ここが確かに一番読んでいてわくわくする。
言うなれば、筆者は、けっこう常識路線を結論に抱いているのだと思う。過激なことを言えばカッコいいかもしれないが、実りはないだろう。しかし、何も疑わずに生きることは、危険極まりないことである。ここぞというところで疑うというのは、簡単なようで、実は簡単ではない。だからひとは騙され、騙す輩が消えないのだ。また、政治的な主張にしても、騙すつもりがあるか政治家にどうかは知らないが、有権者は、懐疑の眼差しを以て見つめなければならないはずである。
そこでは、ひとつ「根拠のある自信」という言葉が繰り返される。それは知的に謙虚にしながらも、疑うべきところはよく顧みて検討し、これは確かだと思える点については力強く前進していくことができることである。そうでないと、詭弁のような不正な輩の議論に負けてしまうかもしれない。そこは遠慮してはならないのだ。正義のためであるならば、遠慮する必要はないばかりか、遠慮してはならない。闘わなければならないこともあるだろう。そのための勇気が、ひとつの主張としてなされるのであれば、それは、一定の懐疑を踏まえて乗り越えたものであるべきだろう。そしてそれは、防ぎようのない偏見に、少しでも気づいていく営みでもあるだろうと期待したい。
なんでもかんでも疑えばよいのではない。そもそもそうやってすべてを疑った議論が真理だ、などと言うこと自体がおかしい。自分自身だけは疑わないのであるから。そうした言葉遊びか論理遊びのようなものが、人生を豊かにするとは思えない。適切な疑い、という言い方では曖昧だが、そういうものが求められているのだ。本書は、その点を、分かりやすいが、それなりに緻密な論点を辿りながら探っていく冒険でもある。
先にも挙げたが、訳者の「解説」、これだけで小さなパンフレットとしては上出来である。だから、これから先に読むという方法もよいような気がする。私は本文から入ったが、もしかすると、この「解説」だけでも、ほぼ読んだ意味になったのではないか、と思われる。そこまで言ってはいけなかったかもしれないけれども。