『壁抜け男』
マルセル・エーメ
平岡敦訳・ヨシタケシンスケ絵
理論社
\1300+
2019.12.
どれだけこの「ショートセレクション」シリーズを読み、感想を書けばよいのか。ヨシタケシンスケの表紙の絵が、「壁抜け男」をユニークに描いているために、この話を読むのが待ち遠しかった。最後に置かれているのだもの、じらしてくれるなぁ。
シリーズは「ショート」とあるが、本巻は比較的長い。40頁近くの平均で、多少の長短がある。だが、その差は私の中ではあまりなかった。というのは、本巻で私は、このシリーズで初めての体験をしたからである。たいていは、収めてあるいろいろな物語の中で、面白いと思うものと、退屈なものとが混じっており、中にはよく意味が分からずに終わった、というものも含まれていることが普通であったのだが、本巻は、私はすべてに惹き込まれた。どれもが、隅々まで目の前にその様子が見えるようで、人物の心中がすぐそこに感じられたのである。
こうなると、ここでご紹介するのに、饒舌になりそうである。それを食い止めなければならない。
だいたい、エーメという作家を、私は知らなかった。フランス文学に疎いせいもあるが、全くの未知の状態で物語を開いたのである。それが、逆によかったのかもしれない。予備知識がないために、物語そのものに入っていけたということなのだろう。
それは、最初の「諺」から爆発した。この愚かな父親が情けなさすぎて、なんとか気づけよと叫びつつも、物語はぬかるみに進んでいく。それは、父親としての自分の愚かさに気づけよ、という声として、今度は自分に投げかけられていくようなものでもあった。人間はこんなふうに、いつもやらかしているのだ、と恥ずかしくなってくるのである。
次の「工場」は、当時の子どもたちの置かれた状況を知らないと、いま読むのは痛すぎるかもしれないが、エーメが生きたのは20世紀の3分の2である。半世紀前までのフランスでもこのような物語が現実味を帯びるようなところがあったのだ。同じフランスのゾラが亡くなった直後にエーメは生まれているが、華やかなヨーロッパ史の中の庶民というものがどうであったのか、私たちはもっと目を向けなければならないと思う。時に幻想的な、ありえないファンタジーをこの作家は描くが、この作品もまたそうである。もちろん、最後の「壁男」はその極致である。ありえないことなのに、それが現実のことのように読者には思え、わくわくしてしまう。そしてそこに、人間の哀しさのようなものが滲んでくる。
子どもたちの目に見えるわくわくしたものが、大人にはどう見えるのか、「七里のブーツ」だと、日頃あまり報われない人が笑顔になるようで、少しばかりほっとする。こういうところが、人気の秘密だったのかもしれない。
政治的な風刺にもなるであろう、「執行官」や「政令」もまた、庶民の支持を受けるに十分なエスプリが利いていると感じた。しかしこの「執行官」は、ある種の回心が、ちょっとコミカルな神やペテロによりもたらされるが、政治が問題なのではなくて、人間性そのものが問われているように見える。善良な思い、良識といったものが、そこにはあるのだとすると、やはり安心して読めるような物語はいいものだと思う。
私にはしっくりきたわけで、早速またエーメの別の本はないか、と探してみたところである。