『自分の「異常性」に気づかない人たち 病識と否認の心理』
西多昌規
草思社
\1300+
2016.11.
「病識」という言葉がある。自分が病気であることを意識できているかどうか、ということである。ヤスパースの提唱であるという。ユダヤ人としてナチスという一種の狂気に迫られた人生を強いられた。だから、なのかもしれない。
本書は、精神科における実例を数例レポートしている。精神医療の領域では、この「病識」の欠落というケースが多いと思われる。その「意識」そのものに問題があるのだから、もしその自覚があるならば、半ば治癒に至っているといえるような場合があるかもしれないのである。この「病識」の説明のためには、第2章が充てられている。ここだけは、実例というよりも、理論がコンパクトに述べられている。
ところで、その病気というものは、どこからなのだろう。誰か特別な患者のためだけのものなのだろうか。「はじめに」でまず著者は、「あなたは、自分のことを、精神的に正常だと思いますか?」と問いかける。私は即座に「思わない」と答える。私は、常にそこから出発しているからだ。自分の立ち位置は、そういうところであるというスタンスからものを見ている。著者もまた、「思う」と端的に答えることはできない、と告白する。それは極めて当然であろうと、私なら思う。しかしまた、「異常」ということの定義も難しいのは事実である。そんなもの、線引き次第でどうにでも変わるものであろう。
その上で、これは誰もが「異常」というレッテルを貼るだろう、と思われるケースを、大学病院という医療現場での出来事として、医師の目から描いたのが、この本のリアルさである。理論を並べたものではない。ただ小説を描いたのでもない。
8つの章で、それらは記述される。その内容の詳細は、本書をお読み戴きたい。確かに、私たちの身近にも、「少しどうだろうか」と思える人や、「困った人だな」と見てしまう人がいる。私もまた、そうなのだろうという気もする。だから、登場人物に対して、「なんだこれは」という感想で突き放したくはないと思った。
確かに、それは被害妄想ではあるだろう。小さなミスで人生が終わったと見なす優秀な人物もどうかしているだろう。自殺を目の前に掲げている人とは、ハラハラして付き合えないかもしれない。特に双極性障害と呼ばれる人物は、大きくブレるその感情を扱いにくいと思うのは当然であろう。自己愛型パーソナリティ障害に対しては、殆ど打つ手がない。これこそ正に、「病識」がないという事態の代表のようなものであるようにさえ思う。常に自分は正義であり、自分は何をしても構わないが、他人には些細なことでも許せないし、馬鹿呼ばわりして差し支えないということにもなる。全く、厄介である。高齢になれば、多少認知症と呼ばれるものが入る。頑固な価値観を目の前にして、対話が成り立たないこともあると思われる。いわゆる「発達障害」となると、様々なケースが想定されるが、どこにでもいる人のようにも見えるが、他人がどのように受け止めるか、という点において甚だ期待ができないこともあるのだろう。「普通、そうしないよね」と指さされるようなことは、私も多々経験がある。かといって、症例が当てはまるとまでは言えないから、これもまた個性のひとつなのだろうか、とも思える。
医局内部の様子も描かれていて、多少ドラマチックでもある。これを面白おかしく扱ってはいけないが、逆にこうした患者の気持ちや考え方を知ってもらうために、ドラマにすることは、あってもよいかもしれない。現に、そのようなドラマはいくつもある。当事者を傷つけないように配慮する必要があるが、理解は広まってほしい、とは思う。
その意味で、本書のタイトルの「異常性」という言葉は、私から見ると強すぎるような気がする。おそらく、販売目的で考案された題ではないかと推測するが、内容的には「病識」ただ一言でもよかったのではないだろうか。サブタイトルに、精神病棟のルポであるようなことが示されたら、私ならむしろ手に取りやすい。こんな私だから、かもしれないが。