本

『泉への招待』

ホンとの本

『泉への招待』
三浦綾子
日本基督教団出版局
\1200
1983.9.

 驚くのは、初版から1か月後に、6版発行となっていることだ。日本基督教団出版局である。どれくらい読まれたというのだろう。
 三浦文学は、幾らかは触れている。また、聖書入門やその自伝のような作品も少しではあるが読んでいる。だが、本作については知らなかった。偶々、書店の投げ売りコーナーで見つけて持ち帰ったのだ。税込30円で読ませて戴いたというのは、ある意味で申し訳ない。
 短い随筆集と言えばよいだろうか。独立したものもあるし、連載のように小さな印刷物に続けられていたコラム的なものもある。標題の「泉への招待」は、茶道誌に連載されていたものであるという。確かに、時折お茶が話題に出て来ていた。
 それはともあれ、この人の随筆の、なんと鋭いことよ。その信仰にはもう、頭が下がるばかりである。それは、三浦綾子さんの信仰が素晴らしい、という意味ではないかもしれない。むしろ、夫の三浦光世さんの前で、自分はダメだ、と突き放す妻の眼差しや、他の人の信仰を前にして自分は遠く及ばないというような溜息を漏らすことが多く見られる。謙遜のつもりだろう、と意地悪な味方をする人がいるかもしれないが、私はそういう計算をしている背景は全く想像できない。
 三浦綾子さんは、心底、他人から信仰を学んでいるのだ。否、信仰というもの、神の愛というものに、新たに気付かされている、と言った方がよいかもしれない。そういう眼差しについては、他の著作からも十分感じられるものだったが、300頁を数える随筆の中では、もう避けることができないくらいに、信仰という矢が飛び続ける有様である。一度にたくさん読み進むのがもったいないほどに、一つひとつの語りから恵みが注がれてくるのである。
 尤も、そういう信仰が嫌いだ、というクリスチャンもいることだろうと思う。なんと正直すぎて、なんと堅苦しいことか、と。
 だが、著者は、よく知られているように、戦争が終わるまで子どもたちを教育する教師であり、教え子に戦場で死ぬように教えていた当事者であった。戦後に墨で教科書を塗りつぶさせる経験もしている。この痛みを、のほほんとしたその後の時代の私たちが、どうやって知ることができるというのだろう。さらに、病気のために身動きできない生活を長く強いられたこと、男性関係でも嫌なやり方をしていたと自分で思うこと、こうしたことの重なった中で、イエス・キリストと出会う、ということが、どれほど大きくて重い意味のあることなのか、については、私たちの中のどのくらいの人が、軽くあしらう資格があるというのだろう。少なくとも、キリストとの出会いについて、何か口を挟もうとすることは、キリスト者にはできるはずがないと思う。
 読んでいて感じるのは、三浦綾子さんが、礼拝説教を実によく聴いていることだ。内容を覚えているとか、理解が深いとか、そういうことなら、キリスト者ならば当たり前のことかもしれない。礼拝説教の中の言葉に胸を刺されるような経験も、多くのキリスト者ならば日常的にあり得るだろう。説教は、神の言葉が語られる場であり、そこには、神の言葉が命となり実現するものとしての、出来事が生じているからだ。しかし、三浦綾子さんは、日常生活の中でふと、説教のことが示されて、気付かされる、あるいは考えさせられる、といった形で、礼拝説教がふと命の言葉として立ち現れるというようなことを書いている。コレは、よほど礼拝説教が自分の血となり肉となっていないと、あり得ないことではないかと思う。
 神の言葉が、著者の魂の中で生きてくる。出来事となる。それは、礼拝説教が心の中に逞しく留まっていなければ、できないことのはずである。私たちは、それほどに、礼拝説教を真剣に聴いているだろうか。心に留まり、いつでも芽が出るように待っているだろうか。
 日常生活の中で、ふと、それが思い起こされる。また、いつも読んでいる聖書の言葉が響いてくる。聖書の意味が自分の言動と重なってくる。新たな意味を教えられる。そんな体験が、私たちの生活の中に、どれほどあるというのだろうか。
 確かに、著者の信仰の話の中には、出て来にくい領域もある。賛美歌を強く喜びの機会とするような話は、私の知る限りは強調されていないように思う。教会や牧師に問題がある、という現実について意見を言うようなことも聞いたことがない。本書にあったことだが、クリスチャンの中にも政治的にこういう立場を唱える人がいることが信じられない、といったような、社会的な話題がないわけではないが、それは珍しいことではないかと思う。社会派とでもいうようなことへは強く関心があるが、信仰については実に杜撰な教会や牧師も現実にいるわけだが、それはしばしば、自分が正しい、という前提から強弁することになりがちだ。それこそが信仰だ、と勘違いしている人の中に、三浦綾子さんが苦手だ、という場合があっても、私はそれはそれで納得ができるような気がする。
 真摯に聖書を読み、祈る。神を信仰する。教会を大切にし、人とのつながりを重んじる。そして人が見ていなくても、神はご存じなのだという信仰の中で、正直に生きる。その姿勢に学ぶことはあっても、とやかく言えたものではない。自分のことが、著しく恥ずかしくなってくるのである。
 内容には触れずに終わろうとしている。これらの文章を、一つひとつ味わえば、信仰の修養になるだろうと思うから、ここで変に紹介めいたものはしたくないと考えたのだ。
 ただ、この本の見返しの部分に、鉛筆で、「クリスマスプレゼントとして」ある方からもらつた旨が書かれていた。読んだその方にとって、本書は信仰の糧となっていたことだろうと思うと、本を受け継ぐことで、誰かのための祈りがつながってゆくものなのだ、ということを肌で感じる思いがする。
 傲慢になりかけた自分に気付いたら、また開きたいと、手の届くところに置いておこうと思う。




Takapan
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