本

『生きることと考えること』

ホンとの本

『生きることと考えること』
森有正
講談社現代新書0240
\720+
1970.11.

 森有正と聞けば、当然「経験」という言葉が頭に浮かぶ。キリスト者としての心をもちながら、知識人として教養溢れる著作を数多く世に出している。小学校に入ったころからフランス語になじみがあったとかで、デカルトやパスカルの思想を深く学んでいる。
 政治家森有礼の家系、あるいは伯爵家系など、恵まれた環境にあったのはもちろんだが、頭脳明晰である点は、個人の資質としても申し分のないものがある。そこへ、やわらかなハートとなれば、人を導くに相応しい人物だとしか言いようがあるまい。
 本書は、自分の生い立ちや、自分の思想を生んだ背景などを、存分に語っている。最初に明かされているが、これは「対談」を起こしたものである。著作に慣れた人とはいえ、語るのはまた違うだろう。もちろん、語ったものを整えていることは間違いなく、加筆や削除を繰り返して成立したものである。伊藤勝彦という哲学者がその対談の相手である。対談というよりは、質問者と言ったほうが、きっとよいのだろう。しかし本書の著者としては、伊藤氏は名前を出していない。最初に「読者の皆さんへ」という題で、本書の由来を紹介しただけである。森有正を語らせるに相応しい質問をするというのは、実に豊かな才能であるに違いない。それは、伊藤氏が、同様にデカルトやパスカルの研究者であることも関係していると言えるだろう。
 さて、書くのとは違い、語るとなると、その質問に応じた形で、そしてその質問者に好意を懐いていることに比例して、時に同じことを繰り返し、時に同じことを言い換えて、自分の中にあるものを表してゆく。その意味では、本書は非常に成功したものであろうと思う。
 その内容をここで綴るつもりはない。読者が耳を傾け、できれば森有正と差し向かいで対話することが肝要である。
 まずは、「私という人間」を明らかにし、フランスに渡る経緯までを語る。そして、そのフランスで気づかされたことを言う。つまり、そこで「経験」という概念と出会うのだ。しかし、それは誰しもが想定する経験ということとは違うだろう。森有正が感じたそれは、さしあたり既成の「経験」という語を使わざるをえなかったとしても、考えていることは他人と共有できるものではないかもしれない。そこで様々に言い換えることも必要になるのだが、ここではまず「感覚の目覚め」という説明が施されている。
 だから、「ことば」を使うにあたっては、一種の「孤独」を感じざるをえなくなる。「ことば」は普遍的なものへと展開するために必須の道ではあるが、それは私たちが「生きること」とつながらなければならないであろう。だからこその「経験」でもあるわけである。
 これも独自の用語感覚であるかもしれないが、森有正は、「体験」と「経験」とを明確に区別する。私などは、「体験」のほうが個人のより深い経験であるような気もするのだが、ここでは反対である。「体験」は、過去に閉ざされたものであるに過ぎず、それは「経験」へと転化させなければならない、というのである。
 この点は比較的長く語られ、その後フランスと日本との違いから、教育や哲学、また芸術へと話題が進む。そして、生きることへと目を向けるとき、それは「よく生きる」ことでなければならない、とする。それはソクラテスの時代から同じなのであるが、ここでは、「よく生きる」ことが「よく考えること」と一体であるはずだ、という確信によって、強く訴えるところへと突き進んでゆく。
 年老いたと称するのは忍びないが、森有正の晩年の時期である。次の世代や若者への眼差しを最後に明らかにして、自分を見つめることを言い遺すかのようにしつつ話を終える。最後に、後日談として、このような対談はもうないだろう、と本人が告げることで、少しばかり淋しさを覚えるが、だからこそ、本書の意義は大きいのではないかと思う。「経験」についても、いま挙げなかった形で、幾度も触れ、説いている。森有正の思想の入門としても、この語りは非常に参考になるはずだと思う。新書形式だが、価値ある一冊であると言えるだろう。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります