『新約聖書神学 イエス・パウロ・ヨハネ』
W.G.キュンメル
山内真訳
日本基督教団出版局
\5800
1981.11.
キリスト教書店で珍しく古書が置いてあり、そこでずいぶんと安く見つけたので購入した。そうでなければ手に取ることはなかったであろう。その後新しい版できれいな本が出ているが、私のはずいぶん旧い専門書タイプのものだ。これを読んだ時点で、新しい版だと7000円と税が付くようだ。お得だったと喜んでいる。
冷静に、聖書を文献として分析することも怠りなく進みながら、信仰という姿勢を外れないため、ある程度聖書を近代的に扱うことを認める方であれば、信仰を育むためにも有益な面があるだろうかと思う。
読んだ時点で、原著の出版から半世紀を経ている。神学の流行や発展というものを考えると、ここに留まっていることはできない、という気もする。だが、それは、その後の神学が健全であるという前提で言うことである。もしも、その後道を誤って進んでいるとすれば、半世紀前のほうが、まだ適切な位置にいた、と考えることもできる。科学が発展するのとは違うのだ。
その意味では、私たちは「古典」というものに、いつも学ぶところがありうることになる。聖書についての学的な展開には目覚ましいものがあるのは事実だが、この二百年ほどの聖書研究史は、どこにも振り返る価値はあるような気がする。但し、その時流に乗って言い放つようなところも多々あるから、やはり私たちは、まず個人個人で聖書に向き合うところから始めなければならないだろう。
果たして新約聖書は、統一的に語ることができるのだろうか。そうした問いから始まる本書は、「イエス・パウロ・ヨハネ」という副題にあるように、イエス・パウロ・ヨハネという三つの視点から、新約聖書を読み解くというものである。それぞれ、やはり見る角度が違うだろう。深まりも異なるし、別々の見解があって然るべきであろう。
ここで「イエス」というのには、他の「パウロ」や「ヨハネ」とは違う掲げられ方であることにお気づきも方もいらしたであろう。パウロ書簡の著者は、それはそれでいい。ヨハネというのが、ヨハネ文書と呼ばれる領域のことを言っているのも、それはそれで価値がある。しょてん黙示録は違う、といった見方もあるだろうが、本書基本的に黙示録は相手にされていない。それでも、ヨハネ書簡と呼ばれるものは、ヨハネによる福音書と何らかのつながりがあると見ることは概ね差し支えないように思われる。それはそれでいい。但し、「イエス」というのはどういうことだろう。それは、著者の言葉の用い方によるのだが、要するに「共観福音書」である。そこに描かれているイエスの姿を追うのである。「共観」と呼ばれるくらいだから、記事の上では何らかの共通点があるとみてよい。それを一緒くたにしているとは思えない。実に細かな引用と指摘が並んでいくので、本書は、聖書の中からある見解の箇所をたくさん引用してつないだもの、と見てもよいくらいである。
また、副題の三つのみならず、実はもうひとつクッションのように扱われたもうひとつの章がある。それは「原始教団の信仰」である。ここは、復活のイエスを扱っている。また、この復活という出来事によって、イエスをどのように捉えるかという、教団の人々の信仰が検討されることになる。「イエス」はイエスの言動を追うものであるが、この章はイエスをどのように見たかという、原始教団の捉え方を追うのである。つまりは、できた「教会」が、イエスをどう見たか、ということである。
三者三様というわけではないが、それらのフィールドは、完全に重なり合うということを拒むものであろう。ではそれ故に新約聖書は教義の確立に失敗し、矛盾だらけで信用できない代物になってしまうのだろうか。問題は、これを読む私たちがどうであるのか、ということではないのだろうか。私たちの立つ位置、それが問われている。私たちがどう神と出会い、神の言葉を受けるか、結局そこに関心を寄せるのでなければ、聖書を読む意味がないのではないか。私たちは、そうしてイエスと出会い、イエスとつながっていくのでなければならないのである。
すでに救いはなされた、と思うのもいい。将来的な救いを望むのもいい。新約聖書には、そのどちらかに偏ったように見える記事があるのは事実だ。しかし、神の愛に出会うこと、その神の愛に誘われて私たちが生きるということ、それを否む論理はどこにもない。著者は最後に、この「出会う」ということを盛んに持ち出す。ひとは、神と出会い、新たな命を受けるということについては、信じた者は、誰しもが「アーメン」と言うのではないだろうか。