『ヒトとAI』
岡野原大輔
岩波新書2122
\940+
2026.7.
AIと銘打てば注目される。利用したことがないような者がよけいに、AIとはなんぞやということを知りたいと願っているので、本がそこそこ売れるだろう。そうなると、売らんかなの本として、少しでも注目を浴びやすい触れ込みがほしい。センセーショナルな書き方で釣ることも厭わず、買わせれば勝ちである。そしてそれこそAIが収集した記事を並べておいて、これから活用して明るい未来が待っている、というような結論にでもしておけば、読後感もよいと見るだろう。あるいは、ちょっと煽って、仕事が奪われるかも知れない、と危機感を述べ、それでも人間にしかできないことは沢山ある、というくらいに結んでおけば、だいたい読者の好みに合致することであろう。
本書は岩波新書。そんな方針は必要ない。地に足の着いた研究者によって、専門的なことを高校生にも分かるくらいの叙述で、注なしで書き切ればよい。しかも、論文では軽々しく言えないようなことであっても、自分の主張を思い切り伝えることも可能だ。
前置きが長くなったが、要するに本書は、2026年時点で言えるAI問題を、人間の制御を含め、人間がいまからどう付き合えばよいのか、という点から述べているのであった。それも、叙述としてはたいへん丁寧に、論を辿るように語っているから、普通に読んでいて困難な思いをすることはまずない。
叙述は慎重である。押さえておくべき布石は十分打っておく。そもそも「学習」とはどういうことか。そのとき、「理解」と「判断」の関係に触れておく。ともすれば、定義に走る議論は胡散臭いものを感じさせることがあるものだが、「本書では」どういう意味で用いるか、の提示は重要である。無意味な誤解や反論は、ひとつの筋を通そうとする新書にとり、またせっかく手に取って読む読者にとり、有害だからである。
正にAIは学習をする。但し、それは人間とは異なる。どのような点で異なるのか、それを意識に上らせるのが、本書の大きな狙いであるだろう。たとえば、継続学習が苦手であるとし、忘れながら覚え直してゆくその正確を明らかにしておく。だが、ヒトは少ない情報から、そして少ない経験から、学習をすることができる。また、しなければならない。所与の知識が少なくても、対応を強いられるし、そのために間違うこともある。が、その間違いをも経験としてその歩みの礎となる。「ヒトは、「世界の中に身を置き、その一部として経験を積む。一方、AIは世界の断片を外部から観測する立場にある」(p35)というように、ヒトとAIを対比させる叙述は随所にあるが、この指摘は本書にとりひとつの重要なものであると言えるであろう。
ヒトは、抽象化を行う。「少ない経験から再利用可能な形へと知識を変換する操作」(p41)であるという。さしあたりでもいい。「人間は「わからないままにしておく」状態に強い不安を覚える」(p43)からである。その抽象化に於いて言語がどのような重要であるのかを述べた後に、その言語を使うAIが、果たして「理解」と呼べるものをもっているのかどうか、筆者は問う。もちろん、「理解」とは何か、という定義により結果は異なることだろうが、時にAIが、人間ではありえないような間違いを犯すことがあることも考慮に入れて、そこに「当事者性の欠如」(p63)があることを匂わせて、話は深まってゆく。
各章の終わりに於いて、本書は一旦まとめを提示し、そこに現れた問題を挙げ、次の章ではそれをどのように扱うかを予告する。この形式で、話がリレーされてゆくのが小気味よい。読者は安心して、次の章の扉を開くことができるのである。
では、ヒトはどのような知能を有しているのか。こちらの検討も欠かせない。「文化」について考察し、「死」を、意識する心についても検討する。そうしてゆくと、AIには、「その判断をした主体として生き続けるという立場には立てない」(p83)ことが明らかになってくる。また、「感情」がAIにはない、などということを前提としてものを言う人がいるが、よく考えてゆくと、「AIはすでに「感情に似たもの」を持ち始めているともいえる」(p91)と筆者は言う。簡単に結論を出したい、という人間の性質を十分に弁えて、じわじわと歩いているのがよいと私は思う。
そうして、次第に核心に入ってゆくのだが、そのときに鍵になる概念が、「自由と責任」(p94)である。「人間の自由の核心は、選んだ結果が取り消せない形で主体の履歴として刻まれることにある」(p97)という言葉を許に、ここから筆者が本当に述べたいことが語られてゆく。いまそれを全部追うことはできないので、ここからぜひ実際に手に取り、お楽しみくださるようにお願いしたい。この問題は、「自己」とは何か、という哲学的な問いにもつながってゆく。そして、それがあってこその「責任」問題となるわけで、さて、AIは実際にいまどういう仕事をしているのか、今後どうなってゆくのか、の見通しをつけてゆくことになる。
そのときの鍵は「エージェント」という言葉である。おおまかに「代理人」と理解してよいだろうか。本書では「目的や指示を与えられると、自律的に情況を解釈し、行動を選択し、結果を出力するAI」(p117)と定義している。人が操作する道具とは異なるのである。もう一つ、これに関して「ハーネス」という概念を導入する。「エージェントの行動を現実世界に安全につなぐための枠組み」(p118)のことである。これを人類は、「文化」というもので保持してきた。だが、AIは「責任を感じず、評判を気にせず、社会的制裁を恐れない」(p119)のである。
この観点を軸に、ここからコミュニケーションや言語、教育という立場から検討し、神託や創造性について考察を重ね、外国語の学習や経済活動というように、人間の活動の多くの分野でのAIの役割を示そうとする。筆者の声は、判断する主体の責任を問うものであったし、ヒトの役割をそこから考えるものだった。プロメテウスの物語に象徴されるように、一度火を得た人間は、もう火のない時代に戻ることはできない。AIは、もはや無しの状態に戻すことはできないものである。だから、その精度のための開発も続けられるであろうし、だが責任主体となれないそれのために、ヒトがどういう態度をとるか、が重要である。「完全な理解を待たずにその結果を使う責任を引き受けること――それがAIと共に生きる時代の基本的な構えである」(p201)というのである。
センセーショナルなウリの宣伝は要らない。冷静に、自らを問う哲学的な眼差しと共に、AIについて考えるひとときをもつのに、恰好の時間を本書はもたらしてくれることであろう。

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