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『言語の本質』

ホンとの本

『言語の本質』
今井むつみ・秋田喜美
中公新書2756
\960+
2023.5.

 売れたそうだ。どうしてだろう。サブタイトルも「ことばはどう生まれ、進化したか」と地味だし、帯の言葉も「なぜヒトだけが言語を持つのか」と、中公新書らしい奥ゆかしさである。
 本書の良さは、その「まとめ」にある。章毎にまとめる。読者は、いま辿ってきた道を振り返ることができる。そして巻末に、本書全体の「まとめ」がある。読後感を確かなものにする。簡単なことのようで、なかなか新書ではやってくれないサービスである。議論そのものを残すため、また読者が把握するのに役立つため、本書のような内容だとなおさら必要であろうが、それにしてもこれはよいものだと思う。
 それを理解せず、本書の流れを半分しか見ずに、AIが分かっていないと誤字を交えながら熱く吠えている書評があったが、もう少し終わりまで読めばよいのに、と残念に思う。本書は、AIの解明をしようとするものではないのだ。
 しかし、本書が売れたのは、ひょっとするとAIへの世間の関心に基づくものかもしれない、とは思う。本書は宣伝の中で、「ChatGPT時代の必読書!」と呼び込みをかけている。これが誤解の素であったのかもしれない。それに触れていないわけではないが、AI開発の一部が本書の議論と一部重なるという程度のものに過ぎない。
 私の読み方が大きく間違っていなければ、本書の前半は「オノマトペ」に費やされ、「記号接地問題」を契機として、「アブダクション推論」へと流れていく。
 まず「オノマトペ」は、認知科学・言語心理学・発達心理学を専門とする今井氏の重要な関心事であったようだ。新書でありながら、非常に詳しく具体的に論点が示され、心地よく読者は運ばれてゆく。今井氏の新書などは何冊か読ませて戴いたが、素人の読者をその世界に連れて行く文章の魅力が、本書にもよく現れていたと思う。
 それから「記号接地問題」を経て「アブダクション推論」へと進み、そこに言語の本質があるのではないか、という問いかけに至る。が、私の推測では、「アブダクション推論」が大きな仮説としてかねてから懐いていた考えではないかと思う。もちろん、言語の本質を考えるための重要な概念として、そこは研究の究極目的のようなものとして掲げられていたのだと思う、という意味である。しかし、関心の深い「オノマトペ」と「アブダクション推論」とをつなぐ橋がいまひとつはっきりしない。そこへ、近年指摘された「記号接地問題」が、その橋として有力ではないか、と考えるようになり、間に入れたのではないか。
 本書をお読みでない方には、いきなりこれだけ並べても困るだろうとは思うが、詳しい内容はぜひ本書でお楽しみ戴きたい。必要な程度は触れるつもりである。
 議論の基盤は、「子ども」にある。人間の子どもがどうしてこれだけ言語を身につけることができるのか、そこに言語の本質があると見たのだ。擬声語や擬態語といった「オノマトペ」の成立の背景の探究はそのためにある。一般語と異なり、子どもがまず親しむのがこれなのである。そして驚くほど、早く沢山身につけていく。まず「オノマトペ」が一般語とどう違うかを浮き上がらせることが必要である。
 しかし、言語はすべてが「オノマトペ」であるわけがない。それ以外の語をどう身につけるというのか。それは、AI開発のポイントであったというのだ。言葉の「音」は、その「意味」と、「オノマトペ」においてはつながりがある。だが、一般語はそうではない。ひとつの「記号」が「意味」と結びつく「接地」はどこなのか。AIはそれを用いているのか。
 実は本書では、このことについての言及が思いのほか少ない。目的が最後にあるためか、このつなぐ橋については、一応1章割り当てられているものの、よく見ると扱っている箇所は非常に少ない。感情や感覚といったものが必要なのだ、というくらいの軽い叙述で通過しているように見受けられるのだ。まるでカントの認識論が感性と悟性の結びつきのところで苦労したように、少なくとも読者に対しては、ここの結びつきが、他の説明と比較して薄かったように感じられた。但し、特にここで「手話」というものに光を当てているのは、素晴らしいと思う。「手話」も「言語」の範疇に入るということを、ある程度の量を用いて説明しているのである。ここに気づかない言語学者が少なくない中で、本書の優れた視野を感じさせてくれるものであった。
 動物との比較もあって、人間の子どもが、言語により対象との結びつきを飛躍的に強くし、語彙を増していくこと、知識や論理を操れるようになること、そこに「アブダクション推論」というものが隠れている、それが本書の真骨頂であろう。推論には、演繹的推論という、堅い論理がある。だが、それでは当たり前のことしか分からず、知識を飛躍的に増やすことはできない。そこで、論理学的には常に真であるとは言えない、いわば誤謬推理の形式があるが、人間はこれを駆使している、というのである。論敵には誤りだが、まあそこそこあてはまるからやってみてもいいんちゃう? という程度のノリで、さしあたり知識を増やすつもりで前進してゆく。もしそれで拙いことが起こったら、失敗を種にまた検討してみよう、というように、誤りのリスクを背負いながら、とりあえずいろいろやってみる、それが「アブダクション推論」とここで呼ぶものであろうかと思う。これを子ども時代からやっているために、人間は、時には失敗しながらも、知識を最高能率で増やしていくことができたのではないか、というわけである。なお、この辺りの議論も、カントが見抜くことのできなかったであったという気がして、個人的にわくわくする気持ちがした。
 さて、私は聖書が好きである。パウロが、コリント書で、「復活」の議論をしている有名な箇所がある。見ていると、恰も論文を見ているかのようであり、如何に「復活」が真理であるかを論じている。だが、少し読めば分かるように、それは全く論理になっていない。誤謬推理の形式なのである。パウロはアリストテレス論理学を学んだとは思えないから、仕方がないとはいえ、しかし本人はえらい自信で、復活を証明したかのような口調で吠えている。これが、本書の「アブダクション推論」に相当するような気がしてきたのである。話が端折ることをお許し戴きたい。これはパウロの「信仰」による議論である。論理学的な議論ではない。となると、「信仰」というのは、リスクを抱えながらも、とりあえずこれで世界を見ていきましょう、というような、この知識を増やす方式の一つではないかと思えるわけである。それはたんなる「知識」ではない。いわば「生き方」である。信仰者は、論理的に正しいからその教義を軸にしているのではない。だが、それを軸にすれば強く生きていくことができるために、信仰の可能性を選び取ったのである。私はそのように、ひとつ光を当てられた気がした。
 また、「記号接地問題」にも思うところがあった。信仰箇条や教義は、ひとつの「記号」である。誰でも口にすることはできる。誰でもその言葉を口にすることができるのと同様である。しかし、その言葉を体験的に用いることは、誰にでもできるわけではない。同じ「戦争」という言葉を口にしても、体験した人の痛みと、全く知らない世代が言うのとは同じことだとは言えない。また、千年前の人が「戦争」と言うのと、核の時代の私たちが言うのとでは、同じ概念だとはとても思えないはずである。いったい、キリスト教の信仰を表す言葉が、その人の感覚や生き方と「接地」はしているのかどうか、これは外から見ても全く分からないのではないだろうか。自分の信仰体験としてのものを持つことなしに、形だけ、口先だけで信仰の言葉をいくら語っても、自分の人格と「接地」していなければ、その人から語られる「記号」に、何の力があるというのだろう、何の命があるというのだろうか。それをひしひしと感じているところだったので、本書の「記号接地問題」は、ことのほか重大なことだと感じられて仕方がなかった。
 最後に、批判を歓迎するという「あとがき」に甘えて、少しばかり要望を加えたいと思う。ひとつは、「オノマトペ」は多分に「音」としての言語にあたると思われる。もちろん手話を気にしてくれているので、グラフィックな点(本書の言葉で言えばアイコン性)としての「オノマトペ」について触れてあるのはよいのであるが、そのとき「音」も「アイコン」という視覚の象徴の言葉に、簡単に重ねられてしまっているような気がする。本当に視覚的な「文字」としての「言語」において、「オノマトペ」はどういう役割を果たしているのだろう。子どもは、文字を覚えると、その文字を心の中で「音」にして、それを理解しているのだろうか。だがまた、文字をまるで絵のように楽しむという書道があったり、デザインされた文字というものを楽しむものもある。もちろんこれだけの新書でなにもかも説明することはできないのであるが、こうした点に興味をもった。
 もうひとつは、終章における「言語の大原則」である。これは筆者たちの立場を示す言語観が箇条書きで並べられており、本書の範囲を大きく逸脱するようなものも含まれるものと思われる。仮説的なものであるとしてもちろんよいと思うのだが、私はその冒頭の「言語の本質的特徴」の最初で止まってしまった。「意味を伝えること」、次の行で「言語は意味を表現する」となっているが、「意味」とは何か、定義されていないのである。たぶん本文の中でも、周知の概念として用いていたのではないかと思うが、「意味」という概念は本書の検討において非常に重要なものである。ウィトゲンシュタインはこれを定義するためにたいへんな苦労をしているし、分析哲学を持ち出すまでもなく、哲学的には「意味」とは何か、非常に厄介な扱いを覚悟しなければならない。なにしろその説明そのものが「意味」を説明するなどと言うことになるからである。その後もこの箇条書きの中で何度か「意味」という語が使われる。新書でそれは不可能であったとは思うが、それはどこかで教えて戴きたいと思った。
 本書の中で理論をつなぐ梯としての中央で、その「意味」という概念がきっと必要になるだろう、というのが、この素人の浅はかな予想である。本書は本書で、十分楽しませて戴いた。




Takapan
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