本

『言語と行為』

ホンとの本

『言語と行為』
J.L.オースティン
坂本百大訳
大修館書店
\2400+
1978.7.

 講談社学術文庫に、興味のある新刊が出た。ウィトゲンシュタイン関係から、お薦めの一冊に挙がっていたのだ。ちょっと値が張るが、これは渡りに船――と思いきや、待てよ、と調べてみる。学術文庫の書き下ろしではあるまい。単行本がすでに出回っているに違いない。
 案の定、大修館書店からの発行で、1978年からのものがある。いまの世の中、こういうときに古書店を駆け巡る必要はない。ポチッとな、と捜すと、全国の古書店の在庫が出てくる仕掛けになっているのである。ハードカバーの美本が、結果文庫新刊の半額以下で手に入るとなると、なんだか儲かったような気持ちになるのは、小市民の証拠だろうか。
 妙な前置きとなったが、本書は1960年に亡くなった、イギリスのジョン・ラングショー・オースティンの代表作で、亡くなる数年前の大学の講義が、世界の哲学の行方を左右する金字塔となったのである。まだ40代半ばであった。
 著作そのものは多くないし、多くは批判的な仕事であるような印象があったが、この講義では、自らの哲学を築き上げるような営みを呈している。講義であるから、時に回りくどいことがある。その一回の講義で語るないように時間的な猶予があれば、かなり詳しく語るのかもしれない。毎回20頁前後の内容だが、時に図版や一覧表のようなものが入り、講義でも掲げられたのではないかと思われる。
 ウィトゲンシュタインが亡くなってから間もなく、この内容の講義が始まっている。後期のウィトゲンシュタインは、前期の、融通の利かないような世界のガチガチの構築から、生活に於ける言語の使われ方を重んじるような視野を提供していた。もちろん、言語ゲームという語を繰り出して、言語の使用に於いては日常的な目的や情況があって然るべきとしたウィトゲンシュタインと、オースティンは同じ動機ではあるまい。ウィトゲンシュタインは、ひとつには、哲学の話の噛み合わなさを明らかにしたのだが、オースティンは、そもそも言葉の用い方そのものが、行為を成し遂げる意図を含み、あるいは行為を核心として成立するのだ、という事情を組み立てる。
 本のタイトルとなっている通りではあるが、「言語行為論」とそれは呼ばれ、言語は命題の真偽に特化されてよしとするべきものではなくて、一つひとつの語の選択が、発話者の行為を含んでいることを指摘する。講義では、「遂行的発言」というような用語を用いて、「行為遂行的」であることを、時に分類し、時に例をたっぷりと挙げながら、学生に自分の世界を説き聞かせてゆく。
 「われわれが欲することは、何ごとかを言うことが何ごとかを行なうことであり得る、あるいは、何ごとかを言いつつ(in saying something)何ごとかを行なっているということがいかなる意味でいわれているのかということをより一般的に最高することである。」(p160)
 このように、訳出は、時に原文の英語を示しながら行われる。これは、英語でなければ伝わりにくいことがあるからであり、時に、英語と日本語の違いから、オースティンの議論が日本語では誤解されることが考えられるからでもある。そのため、原注や訳注、訳者解説と文献などで終わりの100頁を費やしている。これは親切である。中でも「訳者解説」が50頁以上あるのは特筆に値する。そこで、読者はこの訳者解説から先に読むことをお薦めしたい。日常言語の分析という時代背景を、オースティンという人間を描きもするし、そもそもオースティンの哲学徒はどういうものであったのか、について丁寧な解説がなされている。はっきり言えば、ここを読むだけで、きっと十分な勉強になるのである。いわゆる日常言語学派と呼ばれるグループの他の哲学者たちも登場し、誰がどう批判したとか、どう支持されたかとかいう事情も、よく紹介されている。
 それにしても、訳者の日本語は、時に読点が少ない。だかそれは、文の構造を案外見やすくしてくれる場合もあるのだ、ということにも気づかされた。決して、読みにくいということはない。そして、英語は度々括弧付けされているので、煩わしく思わず見ていることも、当然のことかもしれないが、必要だと申し添えて置きたい。




Takapan
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