本

『現代詩入門』

ホンとの本

『現代詩入門』
吉野弘
青土社
\1200+
2007.7.

 何かしらハウツーめいた、詩の作り方でも求めて開いたら、落胆するだろう。そんなものは書いてない。いかにも現代風の、破格な詩の鑑賞でもあるのかと期待したら、失敗するだろう。この詩人は、読者に、詩について語ろうとしているのではない、と思う。詩人は、自分の視点、自分の視座から一歩も動かない。自分は自分の詩を、このようにして生みだしているのだ、という告白しか、そこにはない。ただひたすらに、職人が自分の仕事をしているだけのようなものだ。見学者に説明をしようという気持ちが皆無だとは言わないが、見学者に「分かりますか」とか「どう思いますか」とかいうサービスをするつもりなどない。職人は、ただ作業を続けながら、自分の仕事はこうやってしてきたのだ、と話し続けるだけだ。
 だが、私は保証する。帯にも書いてあるとおり、これは「第一級の現代詩入門」であるのだ、と。詩とは何か、詩には何があるか、それを説得しようというような気持ちは書き手にはないが、聞く耳のある者には、それが赤外線ヒーターの熱のように伝わってくるのだ。そして、読む者の心の内から、じわじわと熱いものが体を変えていくのだ。
 詩は言葉を使う芸術だが、言葉だけでできるものではない。心が生む、と一応しておこう。だが、その心がどのように生むのか、それをまた言葉で説明するということは、至難の業である。だから詩人は、それを自分の胸に問い直し、振り返りながら自分の道を辿るように、ここに詩についての思いや、かつての詩の制作の過程といったものを、言葉という形にしてくれた。見事である。感謝したい。
 それは、まとまった一冊の本にしようという意図で書くのは、たぶん無理出会っただろう。内容の項目の殆どは、隔月刊の雑誌に連載されたものであり、その都度綴られたものである。また、本書において10頁ずつというように、長さが決まっている。私はそれで、毎日10頁ずつ、寝る前に読み続けた。良い酒もそうだが、ちびちびやるのがいい。本書も、どうか一気読みはしないで戴きたい。一つひとつの詩が作られて行く、その過程も公開されているから、じっくりと味わって、噛みしめて、体に溶かし込んでいって戴きたい。私はそれを実行した。だから満腹感を与えられた。満足である。
 吉野弘さんは、私の大好きな詩人である。亡くなったという報道に悲しんだが、たちまち出された追悼特集の本にも手を出した。詩集も改めて読んでみた。やっぱりいい。その人の、定評ある本としてこの『現代詩入門』のことを知り、これまた取り寄せたという具合である。
 日常、気づかず通り過ぎていくであろう事柄の中に、また自らの心の動きの中に、ストップをかける。1枚の写真を撮り、その隅々にまで目を配って、ある瞬間についてとことん分析をすることと比するのは、適切でないかもしれないが、そのようにして、あることに気づき、さらにその背後にある人の心というものに思いを寄せていくことが、どんなに心豊かなものであるのか、思い知らされた。
 本書の中の何かを、ここで提供するのが、このコーナーの正しいあり方で有るのかも知れない。だが、もはやそれはできない。胸が一杯で、言葉がブラウン運動を止めないで踊り回っている。詩人のように言葉を定めることのできない私であるが、その詩人でさえも、一つの詩を公にするまでに、どんなに言葉を調べ、書き直し、また自分の心に問い直しているのか、そうした実際を教えてもらうこともできた。
 ノウハウを知りたい人は、遠慮されるとよい。だが、そういう人でも、本書に触れたとき、心と言葉がどのように出会うのか、体験するかもしれない。それは、聖書を研究材料にしてしまうような人にも似ている。そういう人でも、聖書に触れて、神と自分との出会いを体験するかもしれないからである。聖書そのものも、歴史や教えや様々な知恵を綴っただけのものであるが、そこから命が流れてくるようになったものである。断片的に詩についてのいろいろな出会いや経験を綴っただけのように見える本書も、そこから生き生きと輝くものが与えられるであろうことを、私は期待する。私が受けたのだから、誰かがまた受けることができるのは、当然であると思うからである。




Takapan
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