『ダンス・ダンス・ダンス』
村上春樹
講談社文庫
\590+(上),\563+(下)
1991.12.
村上春樹がデビューあたりから見つめてきた、鼠との物語、そして羊男というキャラクターの潜む世界の中での僕のその後が、34歳という時点で経験した、破滅への危機とその克服を描いたような物語、だなどと簡単に言うことはできないだろうが、その年齢を少しばかり越えた作者が、34歳という設定において見える世界を、ひたすら時系列に従って綴った物語であるとは言えるだろう。
やや粗雑で焦点が定まらなかったデビューあたりからの作品に比べると、この頃には実に落ち着いた、じっくり情景も心理も読者に伝わりやすくなってきているように感じる。そして、感情移入がよりしやすくなっている。
どうして34歳か。ひととおりの人生経験もやってきながら、そこで何か迷いも覚え、あるいは方向転換も考えつつ、それはできないのか、どうにかなるのか、どうにもならないのか、不安も隠しきれない時期であるかもしれない。離婚とか娼婦とか、普通そんなに誰もが経験していないかもしれない女性との関係を次々と登場させ、ついにタバコをふかし学校へも行かない女子中学生とも行動を共にすることになるのは、実に様々な経験や立場を含み、そこから可能性を選んでいく世界を提供するためであろうか。
私はキリストの生涯の年齢に近いであろうその設定というものをも感じた。人生で何かをやり、また何らかの死を経験し、復活と再生を図るに相応しい年齢ではないかと思うのである。事実、僕はある意味で復活する。だがキリストとは違い、実際に死んでしまって蘇るならばまた別のタイプの小説になってしまうだろうから、周りで次々と人が死ぬという描き方をする。しかし、それらの死は、僕自身の死であるということも臭わせる。必ずしも自分の死を恐れている様子は見えない。淡々と死を描くのも著者の特徴である。しかし、自分に呪いのように見せられた6人の死者の幻が現実の誰かの死につながっていく中で、僕も死んでいくという空気を確かに感じさせている。
そして、復活が確かにある。
ネタバレをしないように紹介すると、このような抽象的なものになって申し訳ないが、私は以上のように、本作品を読み受けた。文学作品として、エンターテインメント作品として、もちろん読者はそれぞれに楽しめばいい。特に村上春樹のように、誰もが安心できる理解の中で大団円を迎えて完結、というようなスタイルで作品を提供しない人の場合、自由に読者はドキドキしながら、この後どうなるんだろうね、と想像すればそれでいいし、なんでああなったのか分からない、というもやもやを抱えたままでしばらく唸ってみるのもいい。これが答えだ、などとするのはおかしい。それがまた魅力でもあるのだ。
僕はうまく踊れない。だが、踊らされもするし、やがて踊るようになる。「ダンス」が三度繰り返されるタイトルの中に、私はそんなリズムを感じた。そしてどれもが、34歳という世代の中で経験されうるものではないだろうか、とも思った。村上ファンにはただただお叱りを受けるばかりであるかもしれないし、ファンがどのように「正しく」解釈しているかは知らないが、また著者自身が「こうですよ」と示している場面があるかもしれないが、私は私なりに、この作品と出会った。楽しませてもらった。