本

『僕とぼく』

ホンとの本

『僕とぼく』
川名壮志
新潮社
\1500+
2019.5.

 題名からは、何の本なのか全く分からない。洒落た文学作品のようにも聞こえる。しかし題の横には、小さな文字だが、こう書かれている。
 妹の命が奪われた「あの日」から
 私がこの本のことを知ったのは、ウェブ上で公開されているマンガからだった。それは「ひみつ」と題が換えられていたが、本書を原作としている点は明記されている。
 マンガは、福岡の高校――仮名で登場するが、福岡市のこの高校はすぐに見当がつく――で、文化祭の準備をしている男の子が、髪の長い女の子に、「そのときキミは、どうしていたの?」と問われる場面から始まる。男の子は驚く。そんなふうに問われたことがなかったからだ。そして、自分がそのときどうしていたのか、振り返ることとなる。
 この場面は、本書では実は最後近くに出てくる。だが、確かに印象的なシーンである。そして、本書を象徴するひとつの大きな画となることは間違いない。
 ただ、この男の子は、実は弟の方である。本書では、この子の語りをすべて「ぼく」で通している。そして、もう一人の「僕」がいる。こちらは少し歳の離れた兄である。マンガでは、脇役のような位置にやや引いている。だが本書では、この二人は対等である。そして、交互に一定量の語っては、バトンを渡して時間経過を埋めてゆく。
 妹とは誰か。これは、私にとりとても大きな意味をもつ事件の被害者だった。
 2004年6月、長崎県佐世保市の大久保小学校で、給食の準備中に姿を消していた小学6年生の女子児童が、同級生の女子に首などをカッターナイフで切られて殺害されるという事件が起きた。世に言う「長崎県佐世保市女子児童殺害事件」である。私の感覚では、教育現場で急に「命を大切にする」という言葉が繰り返されるようになったのは、この頃からではなかったかと思われる。被害者の父親は、毎日新聞の記者だった。三年前に妻を亡くし、男手で三人の子を育てていた。二人の兄のうち一人は四国の大学にいた。もう一人は佐世保の中学校に通い、一人の妹がいた。妻に先立たれたときにも精神的に追い詰められていたが、この事件は記者を窮地に陥れた。その心情は察する以上であったはずである。
 本書は、事件が5分の2くらいのところで発生するが、それまでは彼らの日常生活を描く。著者は、毎日新聞で彼らを身近に見ていた。二人の兄から取材をし、それぞれの気持ちになりきった形で、かつてのこと、事件当時のこと、その後のことを、その心理にまで立ち入って描いてゆく。
 かつては、その母親の明るさと、その闘病生活に気づいてからの二人の思いというものにも触れながら描かれてゆく。父親の憔悴しきった姿も理解できていた。だから、突然知らされた事件は、どんなにか……と周囲は思うかもしれないが、この次男の方は、感情を剥き出しにすることなく、一見冷静な態度でいたのだという。母親から、男の子として強くあるように励まされたことが、そのように縛っていたのかもしれないことに、後から気づくのだが、だからこそ、その後父親の転勤で従わされた福岡での高校の、あの場面があるのである。
 実にいたたまれない。読んでいるだけで胸が苦しくなる。だが、読者として私は何の被害も受けていないし、痛みをもたらされたわけではない。それは、自然災害で苦しい生活を強いられている人々の報道に胸を痛めるのと、さして違いがないようにも思える。もしも、などと想像したにせよ、実際自分は痛くも痒くもない中での、精神的な苦しさだけである。
 当事者はたまらない。事件当初、マスコミの攻撃がどのようであったか、も克明に記されている。もちろん、マスコミを糾弾する目的ではないのだから、しつこくは書かない。それでも、被害者家族がどういう目に遭わされていたか、21世紀初め頃は、これが当たり前であったのだ。その後、取材や報道についての一定の基準が社会的に認められてきて、いまはここまでは酷くないと思われる。が、当時は本当に大変だったことがよく分かる。まして弟の方は中学生である。受験もどうなるか知れない中で、よくぞ生活を続けていたものである。
 事件を知らされたとき、校長室に呼ばれ、自分は何かやらかしたのか、とびくびくしながらそこに入ると、先生たちが一斉に彼を取り囲む。その中で知らされた事件であった。が、それは何か現実ではないことのようにしか見えなかった、という辺りの心理もよく描かれている。
 その後、事件について本書は記さない。もちろん事件を背負っていることは間違いない。しかし、それぞれの兄たちが、それぞれの若い時期の人生をどのように送ったのかを、順を追って記してゆく。高校を退学しなければならなかったり、詐欺師に引っかかって借金すら背負わされることになったり、それだけでも十分物語の題材としては惹き混まれてしまう経験を重ねるのであるが、その背後に、妹が殺されたという一点がどこかにある。でも、それだけを考えて生きているのではない。このバランスが、絶妙に描かれているのである。
 女性に出会い、またどのように事件当事者であることを明かしてゆくか、そこはもったいぶらず、比較的自然になされているようにも見えるが、言うべきかどうか、ずいぶんと葛藤があったことだろう。
 それでも、いくらかほっとすることで本が結ばれているのは、いくらかでも救いであるかもしれない。だから、少しだけ安心して、読者は読み進めるとよい。決して同情するというのでもない。単に読者が勇気を与えられるというのでもない。特殊な経験をした「僕」と「ぼく」を、応援しつつも、また自身が応援されているような気持ちになるのであれば、私と少し近い読み方をなさった方であるかもしれない。そんなふうにも思う。
 なお、同じ著者はすでに謝るなら、いつでもおいでという本を2014年に出していた。こちらは事件当時の様子を同僚の視点から詳細に語っている。自然、読んでいて苦しくなるほどの描写が続く。本書では兄たちの心情を兄たちの視線で語っている。生々しい描写はない。当たりがソフトになっているから、血生臭い叙述をお好みでなければ、本書の方が安心できるであろう。




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