『悪霊にさいなまれる世界(上・下)』
カール・セーガン
青木薫訳
早川書房
各\820+
2009.7.
2000年には新潮文庫にて、『人はなぜエセ科学に騙されるのか』というタイトルで刊行されたものと同じであるそうだ。時折出版界にはこういうことがあるが、なんとかならないかと思う。よりよい邦題を付けることが悪いとは思わないが、ネットで購入するとき、実際に手に取るわけではないから、面白そうだと買ってみたところ、すでに読んだ本であるということもありうるからだ。一応その旨、説明には入れてあるのだろうが、よく読まないと分からないという場合も多々ある。
今回の場合は、本書の方が、原題に沿っているものらしい。さらに副題として「「知の闇を照らす灯」としての科学」とあるのも、そうである。これは実は、著者が「科学」をどのように見ているか、という点についてのひとつの象徴的な表現である。いったい闇とは何か。前半の上巻は、旧いタイトルにあるように、「エセ科学」が中心である。優れたライターとして著名だった著者の本領発揮なのかもしれないが、巷に溢れる「エセ科学」について、執拗に論評する。時に揶揄を交えた中でも、著者の主張は揺るぎなく読者の目の前に突きつけられていく。
カール・セーガンは、21世紀を迎える前に没している。アメリカの天文学については、NASAにも関わる一流の学者として名が通っているが、なによりその科学ライターとしての文章の豊かさが際立っていた。これは晩年の著作であると思うが、当時までに知られたアメリカにおけるトンデモ話がふんだんに聞けて面白い。特に宇宙人に連れ去られた経験がある、と口にする人が膨大な数存在するという点には驚いた。
確かに私も小さな時、その手の眉唾もののミステリー話に触れるのは実に面白かった。宇宙人の写真や、不思議な生物を見た話、心霊現象とその写真等々、わくわくしたものである。すると、その楽しみが、「もしかしたら本当にそうなのかもしれない」という気持ちをどこかに宿すことにもなるだろう。それがまた、「科学ですべてが分かるわけではないものな」という方面に走ることも必定で、そうなると、怪しげな宗教にのめり込んでいった人々が少なくないのも、それなりに理解できるような気もしてくる。信仰が、特定の人物に基づく荒唐無稽な作り話に傾いてしまうと、自分を正義にして、恐ろしい行動をも確信犯的に起こしてしまうことに、つながると思えるからである。
さて、著者が、宗教については懐疑的な見方をする立場にあることははっきりしている。そうなると、聖書を信じている私とはそりが合わないと思われるかもしれない。だが、私は非常に共感を覚える者の一人であると思う。むしろ、中途半端に「科学」の権威を利用して、自分の思いつきを正当化しようとする場合が、宗教の中にはあるので、それを駆逐しようとする著者の見解は、大いに用いられてよいとさえ思うのだ。宗教が科学の成果を取り入れることについて、何がどうというつもりはない。必要な部分がある。だが、科学は正しく、自分の宗教も科学なのだ、というような看板を出すのは、明らかに詐欺である。宗教だから自由である、そして科学だから正しい、という見せかけは、ご当人からすれば賢い手法なのだが、非常に危険な存在であると言えるから、それを社会が見破っておかねばならないと思うのだ。
本書は後半の下巻において、科学と社会の関係について、重点を置き換えていく。そこには、エセ科学をあしらうような軽い口調はない。20世紀のアメリカという場における見解であるから、それを普遍的に取り扱うわけにはゆかない部分もあるが、政府と社会、教育といったあり方に、科学を結びつけて論ずるようになってゆく。中には差別と自由との問題も扱い、幅広く世の中について提言を行う。ある意味で、自分の思うことをすべて明かそうとしているような勢いが、そこに感じられるのである。
科学者たちは、原子爆弾を製造した。社会の、政府の要請の故であった。だが、自分の信念のみが唯一正しい、という思い込みで突っ走ることは、かつてのキリスト教が関わった「魔女狩り」をいつでも復活しかねない。自己義認にまみれた当人が、「それは魔女狩りだ」と叫ぶことに利用されるのも、一種の復活であろうか。
終盤は、かなり政治的な発言へと傾いている。社会の仕組みを変える、あるいは社会を動かすというのは、政治の力が欠かせない。科学者として、科学を適切に扱うことの必要性を訴えながら、その運用については、やはり政治の力もまた必要なのだ、ということなのだろう。アメリカらしく、そこには「自由」という思想が底流にあるとは思うが、著者は、その理想への道が、それなりに手元にある、と考えていたのだと思う。
しかし、その死後、同時多発テロが起こる。もしもそれを知っていたら、著者はどのような見解をもち、世に提言していただろうか。1996年に62歳で没した著者が惜しまれる。一方では宗教原理主義の勢力の強いアメリカという国で、科学の方面から、ひとつの良心を提示し続けた著者であるからだ。しかし、聖書を蔑ろにしているわけではない。本書の各章の初めには、聖書の言葉が引用されていることもあったし、信仰や罪について考える文章が載せられていることもある。東洋やインドの知恵、ギリシア・ローマの知恵も引かれている。ある意味で、アメリカの良心でもあったようなその提言を、私たちは果たして受け止めているであろうか。問われるところである。