『悪について誰もが知るべき10の事実』
ジュリア・ショウ
服部由美訳
講談社
\1800+
2019.9.
悪。それはたいへんな論敵である。常に人間としての私から離れることができないし、私がどのように語ろうとも、それを悪なるものが牛耳って操っているやもしれぬ。しかもそれを自分では知りようがない。あらゆる言動が、悪に基づいていないとも限らないのだ。さらに、そのように悪を擬人的に考えることが適切であるかどうか、も分からない。
などと、哲学的な前提ばかり話しても、進展しない。なにしろここには、心理学的な観点を中心としながらも、悪について様々な実情と分析を、分かりやすく紹介してくれた本があるのだ。私が思うに、これは「渾身の」著作である。
章の扉などには、有名な人の言葉が飾ってある。まずはニーチェだが、「怪物と戦う者は、自分も怪物とならないように注意せよ」という。そう、私たちは、悪を論じているつもりで、いつの間にかその悪に染まっているという、先に述べたようなことが起こるのだ。それでも、悪が意味するものを、実例たっぷりに挙げていき、そこからささやかな、信念にも近い結論を、その都度導いていけたら、まずはためになるではないか。たとえ解決はできなくても、悪とは何かを意識することだけでも、私たちの気づきのためにはまずは上等ではないか。
著者の考えは、随所で分かりやすく示されている。私はこう思う、というのは、論文では書かないタイプの文であろうが、著作としては、誠実さを示す。それを世界の究極の真理だとして信じろなどというものではない。謙虚に、自分の執筆姿勢を晒すというような態度なのである。
悪に共感する。著者はまずそれを読者に求める。つまり、自分もまたいつ悪をなしているか知れないし、自分の悪に気づくことはとても重要なことなのだと理解しているのである。悪とは何か、誰も分かっていないに違いない。そもそも議論さえしていないのだ。思い込みばかりで、悪を判断しているのだ。
イギリスの心理学者である。イギリスと言えば、世界に名だたる凶悪犯が名を連ねるし、名探偵ホームズはそのような環境の中で生まれた。
読者よ、あなたがあなたを知るために、この本は書かれた。著者の挑戦は、非常に謙虚にではあるが、人の真実を突いてくる。流れに身を委ねて、この悪の列伝のようなテキストから目を背けることなく、終わりまで辿ってほしいと願う。途中、著者自身の告白にも出会い、だからこれほどの情熱をもって綴っていくことができるのだ、と理解することもあるだろう。様々な理不尽な犯罪の羅列や、残酷な実験の有様には、読んでいて苦しくなることも多いだろうと思うが、これらから目を離すことは、自分と悪との関係を見張ることを止めるということになるだろう。
旧来誤解されてきた学説や迷信のようなものに時折触れながら、なんとしても実在の事件をも辿ることで、私たちを現実から逃げないように、著者は導いていく。その具体的な一つひとつのことを、ここで挙げることはしないでおこう。「それは自分のことだ」と胸が締め付けられるような思いに、読者は苦しくなるだろう。もし呵責を覚えないで読み終える人がいたとしたら、私は断言するが、その人こそ、悪にいいように支配されているのである。そんな人がいないことを願うが、私は現実にそのような人物を知っている。自己愛が過ぎて、他人をすべて蹴散らし、自分だけはすべて正しいと豪語する。このような人間は、きっとこの一人だけではあるまい。
本の題名にもある「悪について誰もが知るべき10の事実」は、本書のある箇所に並べられている。多分に、十誡を意識したものだろうと予想するが、別に十誡とパラレルになっているわけではない。そして、「悪について考え直そう」と読者に声をかけて、本は結ばれる。
キリスト教は、原罪というものを考える。聖書にその言葉があるわけではないが、臭わせるものはある。教義として確立していると思われるが、母体のユダヤ教としては、同じ旧約聖書を用いながらも、原罪ということは考えていないようだ。ただ、人間が悪の性質を有しているということについては、聖書に対するまともな感覚と信仰をもつ人々は、疑うことはあるまい。「誰もが知るべき」ことを、日本のクリスチャンだけが知らない、ということがあってよいはずがない。悪について目を背ける者は、実は悪と戦うような気がない者である。悪と戦いたくないのである。だがそれでは、知らず識らず悪の手下にもなりかねない。悪とは何かを定義する必要はない。ただ、悪と誰もが呼ぶようなことについて考え、悪にどう対処するとよいのか、精一杯考えることが必要である。そのためには、悪を自分自身の中に見ようとしなければならない。これが、キリスト者である。
呼んでいて、気分が悪くなったり、苦しくなったりする人がいるかもしれないが、人間の醜さと向き合うことは、どこかで必要なのである。血を流すほど悪、ないし罪と戦った者はいないだろう、と聖書の手紙は突きつける。それだから、悪について考え直そう、という著者の提案に、私はまず手を挙げたいと思う。皆さまは如何だろうか。