本

『サンデルの政治哲学 <正義>とは何か』

ホンとの本

『サンデルの政治哲学 <正義>とは何か』
小林正弥
平凡社新書
\940+
2010.12.

 日本でもよく読まれた。サンデルの著作は、固い哲学なのに、ベストセラーにもなったのだ。「ハーバード白熱教室」が、確かNHKで放送されて話題になったのが、同じ2010年の春のクールだった。ということは、本書は正に、そのブームに乗っかって発行されたということになる。もちろん、著者はテレビでサンデルを知ったような人ではない。以前からそうした政治哲学のプロであり、実は個人的にサンデルと長年の交流があるらしい。それで出版社から白羽の矢が立てられたということなのだろう。
 言いたいことは山ほどある。だが、それを連発するのがプロではない。読者にひとつ矢が刺さるように、大切な点を伝えるのである。そのためには、著作別に、サンデルの言わんとしていることを鮮やかに示すべきだ。そしてそれを可能にしたのは、ロールズである。正義論で名高いロールズとどう違うのか。これが読者に分かればよいのであろう。
 ハーバード白熱教室は、大学の授業を放送したものである。だが、それは日本の座学的な講義とはまるで違うものだった。恰も舞台俳優のように、だが客席から声が入り、対話しながら話が展開する。予定調和的に原稿どおり話して終わり、というものではなく、客席と舞台とが共に演目を創造するかのように、授業が造り上げられるのである。
 が、もちろんサンデル教授のもつ結論が提示されなければ、授業は完結しない。
 サンデルの立場というものを、著者は「序」に於いてはっきりさせておく。同じハーバード大学の政治哲学に大きな貢献をしたロールズが、今日のリベラリズムの基礎を築いた。ロールズを批判したノージックはリバタリアニズムの創始者であったが、サンデルが、政治学の立場からロールズらを批判した。その立場を示す言葉としては、コミュニタリアニズムというように語られてゆくことになる。
 先ず『これからの「正義」の話をしよう』と『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業』が取り上げられ、正義論を、功利主義からリバタリアニズム、そして背後にあるカントなどについて語る後、リベラリズムの不条理が指摘される。そして、サンデルの「正義と共通善」の考えが紹介される。
 続いて『リベラリズムと正義の限界』で、より哲学的な話題が展開されているように見える。
 以下、『民主政の不満――アメリカにおける公共哲学を求めて』で、アメリカの共和主義がまな板の上に置かれる。が、ふと思うのは、サンデルが本書後のトランプ大統領についてどう評しているか、であるが、それはまた別にあたってみようかと思う。
 さらに『完成に反対する理由』では、生命倫理が問われる。ここは政治哲学というよりは、科学論に傾いていると言えるだろう。
 『公共哲学――政治における道徳性についての小論集』では、ずばり公共哲学が問われる。サンデルは、冷たい政治論を展開しようとは考えていない。道徳などというとまた古くさいと思う人がいるかもしれないが、善を無視して正義論を展開することはできない、とする点は揺るがない。それは目的論的正義論でもあった。こうしてサンデルは、コミュニタリアニズムというだけに留まらず、より進んだ段階にまで進むのである。正しいことは善たること。
 サンデルは、共通善あるいは公共善という考え方をコミュニタリアニズムの核としながら、その「善」と「共」を、目的論的な「善ありし正義」と「共和主義的公共哲学」として発展させてきたのである。
 著者は、日本に於ける政治哲学の情況に触れつつ、日本の政治にも影響が出ることを望むのではあるが、余りにもアメリカでの政治哲学の地盤で論じられたサンデルの政治哲学であるから、私はそれは建前のように聞こえてならない。日本の政治は、それとは全く違うものである。どう表現してよいか分からないが、とにかくサンデルは日本の政治とはずいぶんと違う。とはいえ、サンデル自身、日本の政治を知っていて批判をしており、やはり「共通善」というようなサンデルの哲学が日本に必要だ、とは言っている。それはそれでよいが、日本を変えるものとはならないだろう、としか私には言えない。
 日本文化は、西洋の理論で測られないものを有しているからだ。




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