『Poetry Dogs』
斉藤倫
講談社
\1600+
2022.10.
何気なく手に取った図書館の本は、素敵な出会いをもたらしてくれた。
文学である。文学の本がしばしばもつ良い性質は、安易に各箇所の題を提示しないところである。これからの物語の展開に、一定の題を設けて、読者を誘導するような真似をしないということである。ストーリーは読者がそれぞれに感じればいい。読者がその場面のタイトルを自由につければいい。作者が指定しない。できれば、本の題名すら付けたくないという場合もあるだろう。読者よ、あなたはこれをどう読むか。それだけでよいのだ、と。
雑誌「群像」に、2021年2月号から翌年4月号まで連載されたものがまとめられた。15の場面に区切っているが、そのどれ一つをとっても題のようなものはない。何が飛び出すか、読んでからのお楽しみである。
それらの章は、「第一夜」「第二夜」……のように名づけられている。これは、語り手である「ぼく」が、夜にバーを訪ねる、という設定からのものである。最初の夜、それはこの店を最初に訪れたという設定である。
ふらりと入ったそのバーで、ぼくを迎えたバーテンダーは、「いぬだった」。
いきなるシュールだとか何とか言わないでいこう。バーテンダーは、普通に喋る。いぬだという設定のほかは、ただのバーテンダーであり、客としてのぼくと、粋な会話を繰り返す。
このとき、カクテルに加えて、「詩」は何にするか、といぬのバーテンダーが尋ねた。お通しというか、つきだしというか、「詩」を伺うのである。最初は、とりあえず自分にあいそうな詩を、とぼくは求めたが、すると、エリオットの詩のついた本を開いて見せる。それを間に、二人で文学談義を始める。しかし、それはただの文学談義ではない。必ず何かしら人生論となるのである。これが本書全体に貫かれていて、頼もしい。
あるときには、記憶であったり、死であったり、性別の問題であったり、人生の不条理であったりする。それについて考えさせるきっかけとしての詩がそこに示され、たいていはもう一つ、詩が畳みかけられる(一度だけ、あと二つという回があった)。もちろん、これらが何についての話であるのか、については読者それぞれが決めればよいことであって、私が決めつけるつもりはない。
社会的な問題のようにも感じられ、時に人生論そのものとも受け取れる。お酒の話題を十分に表に出しながら、その酔い加減やその場での話の成り行きによって、バーという場ではあっても、様々に粋なストーリーが展開する。いぬのバーテンダーとぼくとは、実に噛合った話題と話の筋道で、一つひとつの来店記録が、粋な会話と心に刻まれる人生の知恵を生みだしていく。よくできた筋書きである。
一つひとつの詩を、解釈しようというようなものではない。「分からない」で通り過ぎていくような場面もある。しかし、もちろん作者はそれに意味をこめている。それでいて、意味を画一的なものにしようとも思わないので、無粋な解釈を提示しようとしているのでもない。正に、バーらしく、酔った勢いで、つい本音が飛び出しては言葉が交わり合う、というような雰囲気がちゃんと描かれている。だからやはりそれは「粋な会話」なのである。
もちろん、バーテンダーがいぬだということで、犬にまつわる話題にも事欠かない。お洒落である。
最後は、ちょっと切ない展開となる。もちろんそれはここで明かすつもりはない。最後の最後にもまた、犬だということについて、粋な計らいを示してくれる。もしかすると、この最後の場面を、連載の最初に決めていて、そこへ向けて毎月話題を繋げていったのではないか、と私は無粋な推測をしてみる。