本

『哲学のことば』

ホンとの本

『哲学のことば』
左近司祥子
岩波ジュニア新書557
\780+
2007.2.

 表紙が猫。頭には「?」が載っている。ハチワレ猫の顔は、強面で不機嫌なふうでもある。要するに、哲学しているのである。
 本を開くと、いきなり「デブ」という単語から始まる。その言葉にキレた大人がいたということである。言葉に力があること、言葉が人を殺すこともできること、これに注目させる。ひとは、考えるときには必ず言葉を使うものなのだ。
 岩波ジュニア新書は、中高生のために本来作られたはずだ。元来岩波新書自体が、高校生をターゲットにしていたのを、もう無理だということで、「ジュニア」版が生まれたという。さらに最近は、それも無理ということで、もっとレベルを落としている様子である。
 ということは、この「岩波ジュニア新書」のレベルは、相対的に上がっているということである。本書は、確かに若者に向けて語っているようなスタイルである。そして話題的にも、若者に分かりやすいものとなっている。
 しかし、思考のレベルは高い。哲学科教授として、若い学生に日頃説いているのをそのままに綴っているようなものである。他の著書『哲学するネコ』の中でも公言しているように、猫好きである。喩えにすぐに猫が出てくる。いや、猫しか出てこないかもしれない。だから表紙もまた、ハチワレだったのだ。
 専門はギリシア哲学。そこで、話にもギリシア哲学がたくさん飛び出す。高校でも哲学などろくに履修しない制度の中で、これはやはり大学級の話なのかもしれない。
 しかし、哲学史を説明するのが目的ではない。ソクラテスよろしく、「問う」ことでよいのだ。中高生が「問う」ようなことを、綴ってゆく。
 そもそも人間ってなに? 動物ってなに?
 恋する気持ち
 ほんとうの友達?……という具合である。
 やがて、「私」とは何ものであるのか、「死」とは何なのか、そうした問いにも展開してゆく。そして、ギリシア哲学入門としての本書の価値も輝いてゆく。
 ところで、その恋の話のときに、「神は愛です」と称して、キリスト教の話が挟み込まれる。著者はキリスト者ではなく、聖書を信仰するという視点から説明するつもりはない。しかし、読者にキリスト教の「愛」についてきちんと教えてくれるのは、ありがたい。
 姦淫の現場を引きずり出された女の話である。罪なき者がまず石を擲てと言うと、イエスはしゃがんで何か字を書いていた。そのときイエスが、「その場にいるすべての人のまなざしになろうとしていた」、というのが著者の解釈である。同じまなざしになる、そこに愛の関係というものを見出すのである。「イエスが、人を選ばず、自分にかかわり合いのある人とは、全部、視点を同じくしようとしていたということこそ、「神の愛」なのです」と説くのであるが、「神は愛」という言葉に、当時の人々が仰天したであろうとしている。ギリシアの「神」には、「愛」なるものは結びつかなかったのである。愛はエロース、慕い求める恋のようなものでしかなかったのである。
 但し、新約聖書に、「神の愛をエロースで表している箇所もある」と記した場面があるが、新約聖書には「エロース」の語は出てこない。エロースのような意味で用いている、ということを言おうとしたのかもしれないが、語そのものが出てくるかのような書き方がなされているので、これは適切ではない。
 ギリシア哲学入門である、とは言ったが、特に「私」について考えるとなると、近代哲学が登場しないわけではない。デカルトは当然であるし、ニーチェやサルトルも登場することになる。また「死」を扱うには、ハイデッガーを扱うのも当然となるし、他にカントも少し出てくる。ギリシアに偏ってはいるが、哲学の「問い」を考えるためにも、確かに良い本となっているように思う。
 最後は、ソクラテス以来の鉄則でもある「よく生きる」ことが検討される。私たちは生きる、そして生きている。生きなければならない。時間性の中に「不可逆性」を指摘し、その時間の中で生きて行くことをしっかり見つめることの大切さを指摘する。が、そのために、神が自分に何をさせようとしているか、宇宙の創造者により意味のある世界を意識できるか、そこに奇跡を見出せるか、そうした考えで、奇跡による出会いにいとおしさを覚えることへと心が向かっていく。そこに「偶然」という要素を取り入れるのが著者の人生観であるようだが、それにしても、これではまるでキリスト教の説教のようではないか。
 となると、キリスト教の説教への黙想のお供に、本書は案外適しているかもしれない、ということである。冗談ではなく、私はそう思う。これらの「問う」ことに対する神の「応え」を、聖書の中に見出すのは、なかなかの愉しみではないだろうか。




Takapan
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