本

『ルター教会暦説教集』

ホンとの本

『ルター教会暦説教集』
マルティン・ルター
植田兼義・金子晴勇訳
教文館
\3300+
2011.4.

 宗教改革者ルターの名は、中学生は皆知っている。少し学習の進んだ生徒は、「聖書のみ」「万人祭司」といった語も心得ている。いまプロテスタント教会は、ルター派と呼ばれる教会でなくても、ルターに対しては一定の評価をしていると思われ、特にその聖書を中心とした信仰の姿勢は、プロテスタント信仰の基本であると言ってよいだろう。そのため、礼拝では、聖書を説き明かす説教が非常に重要なものとされるようになってゆく。本書は、そのルターの説教について知ることができる、ありがたい資料である。
 説教そのものの語り口調があるというふうには捉えるべきではない。これは「説教のために作成された聖書注解」である。「ポスティレ」と呼ばれているが、それは13世紀にはすでにこうしたものがあったのだという。ルターは、教会暦に基づいてこうしたものがあるべきだという勧めから作成したそうだが、それというのも、「聖書に忠実な福音」であるような資料がなかったそうなのである。作り話や聖人伝説などが注釈として出回っていたらしいが、ルターはそれではいけないと考えたのである。
 ルターはこの資料をそのままにただ話したのではないらしい。「しばしば準備した解釈の流れを変えて、新しい考えをつけ加え、草稿の多くの部分を簡単に省いて、他の語句に変えたという」(解説)。適切な福音をきちんと押さえておいて、実際に語る場合には、その時に応じてそれを適切に用いる、ということだろうか。しかし「ルターにとり注釈と説教との間には原則的相違はない」(解説)とあるように、私はその事情が分かるような気がする。思いつきで語るのではないのだ。だが、調べたことをただ口にすればよいのでもないのだ。そこにいる人に命の言葉を伝える。しかし、ちゃんと学んだこと、熟考したことを基にしなければならない、ということなのである。
 この「解説」には優れた説明が多くなされている。「説教者の任務には二つの仕事がある。つまり、教えることと訓戒と警告することである」などともいう。三つのように見えるが、「訓戒・警告」が一つであるのだろう。私はできれば、さらに「励ますこと・生かすこと」という大きな目的を掲げておきたい気がするが、ルターの目指したものも、よく分かる気がする。
 本書には、クリスマスについて「前夜ミサ」「深夜礼拝」「降誕日」といった場で用いるべき聖書箇所とその探究がまず見える。ルターは一日に複数回説教することがあり、それが何日も続くような場合もあったという。先の事情によるならば、資料があれば語ること自体はできたかもしれない。このクリスマスについても、現代で定番の聖書箇所というわけではなく、テトスへの手紙やヘブライ人への手紙からとられるなど、味わい深い。私たちも、定番の聖句に囚われず、様々な聖書の言葉から教えられ、語るような者でありたいと思う。
 聖人のための祭における説教のようなものも見られるのは、ルターの時代にはまだまだ旧来の習慣も多く普通になされていたことによるのではあるだろう。使徒言行録によるとキリストの弟子たちは、ちゃんとユダヤ教にあるように神殿礼拝を続けていたらしいことが分かるが、それと同様であるのだろう。
 但し、本書の様々な場所で気づく。従来のカトリック教会のやり方や考え方が、時に皮肉をこめて、かなり批判されているのである。事ある毎に、それは偽物だ、悪魔のやり方だ、というような口調が紛れ込んでくる。いまの私たちから見ると、少しくどいという気がしなくもないが、それは私たちから宗教改革の評価がそれなりになされているからであろう。当時のルターとしては、いくら間違っていると批判しても、その間違いを認めないような人々がまだ大勢いたのであるから、それは違う、と何度も繰り返さなければならない必要があったのである。その気持ちも、私は少し分かる。どうして見えないのだ、こんなにはっきり聖書と違うことをやっているというのに、気づかないのだ、そんな悔しい思いのようなものがあったと思うのだ。だから、適切に釘を刺して置かなければならない。説教を聞く人に、よくよく納得してもらわなくてはならない。あるいは、聞く人に目覚めてほしい。口汚く罵るのはまた別だが、批判は必要なのである。
 ルターがこうして独り巨大な組織に向かって立ち向かうというのは、やはり大したことなのだと思う。勇気の要ることであり、あるいはどこか不安があったのかもしれない。それでも、ルターは自ら神との関係を強く結んでいたに違いない。自分としては確信があった。揺らがなかった。ただ、世の人々はなかなか分かってくれなかった。一部の実力者たちに認められたり、場合によっては利用されたりしながらも、ルターはルターの置かれた立場を、多分に神の計画の中で、果たしていったということなのかもしれない。
 聖書箇所への深い洞察がたっぷりと味わえる。確かにこれは、私たちにも役に立つ。考えてみれば、五百年の時を超えて、いますぐここで使うことができるような説教の資料が整えられているというのは、凄いことではなかろうか。ルターが、すぐ隣りに立って語っているような気すらしてくる。独り神の前に立ち、神と対話し、神から知恵を受けて、それを形にしておく。それは、また新たな誰かを生かすことになるのだ。そういうことが本当にあるのだ、ということを本書のような形で知ると、励みになる。神が、励ましてくれているように思えて、感謝に堪えない。




Takapan
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