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『エルサレムの歴史と文化』

ホンとの本

『エルサレムの歴史と文化』
浅野和生
中公新書2753
\1000+
2023.5.

 タイトルに偽りはない。テーマは専ら「エルサレム」である。サブタイトルには「3つの宗教の聖地をめぐる」が付せられている。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の3つの宗教である。
 著者は、美術史の専門家であるようだ。ビザンティンについての著書が目立つ。ヨーロッパからアジアにかけての、中性の時期の美術がフィールだなのだろうか。的をエルサレムに絞った故に、聖書を頼りに本書に巡り会った者としては、非常に分かりやすく有り難いものだと言える。著者が実際に現地に行って撮影した写真が鏤められている。唯一例外の資料がひとつあるが、他はすべて著者の手によるものである。エルサレムの各地である。当然、聖書に由来のある画像がふんだんに味わえる。
 但し、著者は聖書の記述を、歴史的なものだとはあまり認めていない。随所で、実際はこうであっただろう、と述べ、多くの場合それなりの根拠を示している。単に偏見をもっているわけではない。が、それが聖書の記述がこれこれの理由で作られたのだろう、という言い方が重なってくると、キリスト教信徒がこれを読み続けるのは、心苦しくなってくるかもしれない。
 そう、信仰の書として聖書を読むことを悪しきことだ、などと本書は少しも書いていないにも拘わらず、聖書の出来事は実際はこうだっただろう、という記事が終始並んでくるので、それで信仰が揺らぐような信徒は、読まないほうが賢明であろう。  だか、もしそうでないなら、つまり自分の信仰はそうしたところとは別にあることが確固たるものとして確立している信徒であれば、本書は実にすぐれた本だ、と私はお薦めしたいのである。
 何故か。本書が、聖書の解説として、実に見事だからである。
 もちろん、話題はエルサレムである。聖書の知識としてはエルサレムは限定的である。聖書のすべてではない。また、そこは歴史的には、イスラム教も一端を担っている。だが、本書の中でイスラム教についての記述の占める割合は1割に過ぎない。キリスト教にとり旧約聖書も大切だとするならば、9割分は、聖書の学びに役立つのである。しかも、聖書ができてから以降の歴史でもエルサレムは様々な運命を辿るが、それについての記述も、それほど多くない。本書は、「エルサレムの歴史と文化」とあるが、私は実際に読んで驚く。これは、聖書の解説と呼んでもよいものなのである。
 書きぶりからすると、著者はキリスト教信仰をお持ちではないような印象を与える。だが、さすが研究者である。聖書については、その解釈を含め、実に詳しい知識をお持ちである。さらに現地をよくご存じである。聖書の文と現在のその場所などについて、実体験を含めた形での知識が満載なのである。
 もちろん、現在のエルサレムの観光地は、聖書当時のものだとは言い難いものばかりだ。単純な伝説を含め、フェイクもどきのものばかりだ、とも言える。なんら聖書的根拠もなければ、考古学的にそこだなどとは言えないような環境にある。しかし、だからそれが無価値だ、と断ずるようなことも、著者は決してしない。「伝承や文献史料や史跡が、どのような背景のもとに生まれ、どのようなディテールをつけ加えながら現代まで受け継がれてきたかというプロセス全体をとらえることが、歴史をよりおもしろく、より深く理解する方法だというのが筆者の考えである」(p291)と、「あとがき」に書かれている。その背景には、「筆者はエルサレムに対して格別のあこがれを抱いてきた」という事実がある。それがまた、聖書へのこれだけの言及を生みだしているのであるに違いない。
 史跡を紹介するためには、聖書を徹底的に読み、その歴史性を検討した上で、間違いのないことを報告しなければならない。新書というポピュラーな形ではあるものの、実に驚くべき聖書解説書として機能していることは間違いない。惜しむらくは、索引がないことであるが、300頁を充実させてくれた出版に対して、贅沢は言うべきではないかもしれない。
 イスラエルの現地を踏みしめた形で語られる聖書の解説は、イスラエルも神も知らないような「説教」よりも、どれだけ優れたものであるか、目から鱗が落ちたような思いがする。




Takapan
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