『エーリッヒ・フロム』
岸見一郎
講談社現代新書2687
\800+
2022.11.
講談社現代新書が「今を生きる思想」というシリーズで、近年発行を始めたシリーズの1冊。百頁を少し越えるくらいであるから、一般の新書の半分くらいの量である。しかし先にこの1冊の『ハンナ・アレント』をご紹介したときに、書物としての厚さはそこまでの薄さを感じさせないことに触れた。紙質が違うのである。
それはともかく、今回はエーリッヒ・フロム。1900年に生まれたドイツの社会心理学者である。フロイトの理論を、社会というものに適用する道を拓いたともいえる。しかし、自由を求める心理が、逆説的にヒトラーの独裁を生みだしたという点が、ひとつの理の中でつながっていくとなるなど、現代人のもつ心理が社会を大きく変えていくことに、厳しい視点を提供したことは確かであろう。
本書は、アドラー心理学関係の本で特に知られるようになった、岸見一郎氏。元来はギリシア哲学を専門とする方としてよいであろうか。半分の量でフロムという一人の思想家を紹介するためには、回り道や遊びは必要ない。現代人の多忙さの中で、少量でエッセンスを伝えるという役割を果たすべく、フロムについても、簡潔にスピーディに解説が進んで行く。味気ない面もあるが、小気味よく情報が流れ出てくる印象がある。
本を開くとまず「エーリッヒ・フロムは予言者である」という文から始まる。それは、「現代は、フロムが予言し警告を発していた通りの世界になってしまった」という意味である。それは、ただ未来の予言に留まらない。人間の本質に深くメスを入れる点では、旧約聖書の「預言者」に匹敵することを挙げてくる。預言者の声は、たいてい大衆には届かず、「ひと」はそんな警告に耳を傾けないのだ。だが、それが真実であることを知ったときは、すでに破局を迎えてしまってからとなる。フロムの預言性をそこにみる著者の冒頭の部分は、私にとっては常に頭に置いていることであった。人間は、如何に見えて射ないのか。聖書からいえば、眠りこけているのである。目を覚ましていなさい、と幾度もイエスが言うのも、そういうことであるに違いない。
このフロムの提言を受け入れるだけの「勇気」が現代人にあるだろうか、これをそこで著者は問う。この「勇気」は本文でもカギ括弧である。この概念は、私が気づいた、「何気ないけれども実は大きな本質的なものを指し示す概念」である。ただ、本書はそれを追究する訳ではない。フロムの中のメインストリートを共に通って行こうではないか。
ラビの家系に生まれたフロムは、ナチス政権の誕生後、最終的にはアメリカへ亡命する。そのスピリットは、やはり生きていたと思われ、カネに囚われている現代人に警告を与えることとなる。もちろん、それが聞き入れられていないからこその預言者となるのであるが、その言葉はいまもこうして真面目に取り上げられる。
権威とは何か。何故に孤独であるのか。フロイトをマルクスを通じて社会的に適用するために「生産的」という概念を取り扱う。こうした問題は、やがて「愛」によってこそ克服されるものとなるであろう。フロムは、愛についてもよい本を著している。
著者は、最後にこのフロムの声から、人生論へと向かって終わる。確かに百年単位の昔、2本でも哲学と言えば人生論のことをイメージさせるものであった。それが薄れてしまって久しい。いまは人生論が、科学によって作られる場合もあるほどで、フロムのように社会をフィールドとして唱えられることもあるだろう。思索するにも、一定の研究調査やデータを必要としているということなのかもしれない。
幸福のためには金が必要だ、その金はどうすれば、と考えて躍起になっていくうちに、ひとは実はそこに囚われてしまっており、自分というものを見失っているのかもしれない。否、自分を捨ててしまっているとすら言えるのではないか。そのような社会に適応していることが果たして健全なのか。そのような社会に適応できずに、たとえば引きこもっているような人々のほうが、むしろ自分というものを見失わないでいるのではないか。それは、ひとを愛することによってこそ、見出されるものであろう。自分本位な姿勢が、結局自分というものを滅ぼそうとしていることが、本当であるのならば。
侍映画に憧れたあるクロアチアの人が、夢の日本に来たとき、日本人は侍ではないと落胆していた。そのとき阪神淡路大震災に遭遇した。日本人が助け合う姿を目撃した。これで、彼女は日本の中に素晴らしいものを見たと感動した。日本に住み、やがてキリスト者となることによって、神の真実を軸に、日本とクロアチアの架け橋としての役割を果たすようになったという。
フロムの指摘は、そのまま日本に当てはまることが難しいことがあるかもしれない。やはりヨーロッパ文化の中での出来事や、考え方に基づいて主張されていることであるに違いない面があるだろう。だから、フロムの説で人間一般を分析したつもりになるということは、慎むべきではないかと思われる。だが、油断していると、日本人であっても、少し別の角度からでも、集団にまとめ上げられ、悪を正義と勘違いして暴走する危険があることを、弁えなければならないであろう。
適切な仕方で、フロムを読むというのは、口で言うほど簡単なことではないだろうが、せめて旧約聖書の預言者の言葉を、一定の文化的範疇の中で読み解くことがいまなお有効なように、フロムの説を、私たちが受け止めてその警告をいまの私たちなりに、良い方向へ動かすものでありたい。愛と自由への問いかけは、それへの一定の解決を決定づけるためのものではなく、私たちがいまここでその都度問うていかなければならないものであるはずなのだ。