『エヌマ・エリシュ』
月本昭男訳・注解
ぷねうま舎
\3200+
2022.12.
バビロニア創世叙事詩である。よくぞこのような本を出版してくださった。180頁ない量でこの価格だから、割高ではあるが、こうした文献が翻訳されて読めるというのは、実にありがたい。
旧約聖書は、その後の歴史の中でキリスト教を通して大きく取り上げられ、それが信仰どころか、生活や社会の基準になっていった。そのため、ヨーロッパの歴史と文化を顧みると、旧約聖書だけが歴史の真実でありすべてであるという目で見られている常識がある。だが、その旧約聖書の物語が、他の文明においても、似たようなものが発見されるに至ると、聖書の文献価値というものが取り沙汰されるようになってきた。しかも、旧約聖書の成立よりも古い文化だと、まるで旧約聖書が他の文献を参考にして書かれたという図式になるであろう。こうすると、信仰の土台にすら関わる可能性が出てくるのである。
この「エヌマ・エリシュ」は、最古の文献そのものが、ダビデの頃に遡ることができるという。とても旧約聖書が編集されたような時期ではない。そしてそこには、世界創造の物語がある。多神教の世界ではあるが、何かしら物語が展開し、人々がそれを信じて生き、また国をつくっていたであろうことが想像される。
ギリシア神話のように、人間味溢れるキャラクターたちではあるが、その内容はまた直にご覧戴くことにしよう。本書は、見開きで右にあたる頁がほぼ翻訳となり、左頁に注釈が入れてあることが多い。それは、そのように構成しているというよりも、とにかく注がたくさん必要であるからだ。原語の紹介と、その単語の意味からいろいろ説明を加えてくれるし、言い回しの示す意味の解説など、この注釈の豊富さが、本書の見所であるだろうと思う。
いやはや、よくぞこれだけの注釈を入れることができるというものだ。元は七つの粘土板に、アッカド語で記されたものである。一部を除いて、よく保存されていたものだと驚くべきものである。マルドゥク神を中心として、その生まれる前から、後に最高神の立場を得るこの物語が、生き生きと書かれ、それがいま日本語となっている。不思議なものだ。
楔形文字で刻まれた粘土板の発見は、19世紀半ばである。それがどのように研究がなされたかということなどについては、読み応えのある「解説」が巻末に載せられている。これを見るだけでも、バビロニア創世叙事詩についての、かなりの知識が手に入る。30頁ほどであるが、このテーマでこれだけの叙述をしている本が、一般にあるかというと、難しいだろう。
もちろん、古代メソポタミアの神話としては、「ギルガメシュ叙事詩」が有名である。こちらは紀元前二千年から三千年という歴史の中で生まれたものであるらしい。しかしこちらは、実在した可能性のある伝説的な王ギルガメシュを中心に据えている。神々も登場するが、描かれるのは人間社会のようでもある。
こちらの「エヌマ・エリシュ」は、世界創造の神話である。そして神々の関係を描きながら、人間の創造についても触れ、旧約聖書と比較しても興味深いものがあると言えよう。
古代語については権威ともいわれる月本昭男さんの、心をこめた1冊である。明らかにドラマチックな創造の神話である本書からすると、旧約聖書は実にリアルに世界を描いているという印象がある。こちらのほうは、凡そ理性的には把握できないような描写が続く。だが、そうした無邪気な物語であるからこそ、なんだか不気味なものに感じられるというのも本当であるる
実際に手に取って開いてみないと、この面白さは伝わらないだろうと思うが、機会があったらどうか楽しんで戴きたい。