本

『英米哲学入門』

ホンとの本

『英米哲学入門』
一ノ瀬正樹
ちくま新書1322
\980+
2018.4.

 近年、ちくま新書は、哲学の方面に力強い足跡を残している。私もそれをここで扱う頻度が多くなった。そしていままた、少しばかり以前のものであったが、この本を見つけた。
 タイトルが「英米哲学入門」である。が、その看板には偽りがあるという。そのことは、「はじめに」を実際に読まなければ分からない。それも、「決して「英米哲学」についての入門書ではない」と断言している。これは驚きである。そして、「英米哲学」の紹介的な入門については、別の文庫本を見てくれ、と言っている。なんだこれは。こんな本、見たことがない。
 そうではない。「英米哲学をおもな素材とした「哲学入門」である」と著者は弁明にならない弁明をして、「より正確には、英米『哲学入門』、なのである」ときた。全く、驚くべき裏切りであり、宣伝下手である。それならそうとそれを表から見て分かるように言えばいいではないか。ところが表紙のどこを見ても、そんなことは書かれていない。
 表紙にある、内容の一部を引用した文章は、ここに引いてもよいであろう。
「……入門書である以上、「分かる」となってもらうよう明快に書かなければならない。けれども、そもそも哲学に入門してもらうとは、本当に「分からない」、という体験をしてもらうことにほかならない。「これは謎だ」「これは不思議だ」ということの実感、それこそが最重要の確信なのである。……」
 うむ。これは「おわりに」にある、総括めいたところにある言葉である。結局、そういうところに行き着くのではあるから、蕩々と中で語る哲学もまた、ひとつの叩き台に過ぎないのであろう。
 本書は、シッテルン博士が基本的に講義をしているような語りがしばらく続き、講義の終わりに、二人の学生、デアール君とベッキーさんの質問を受ける、質疑応答の時間を短くもつという構成になっている。シッテルン博士は最初「シュテルン(星)」に見えたのだが、「知ってるん」のことであるに違いない。それをドイツ語の「星」と洒落たのかどうか、よく分からないが、これはドイツ哲学を持ち出す場所ではなかった。
 この二人の学生の不自然な名前は、本書全体を貫くテーマであることも、もちろん「はじめに」できちんと紹介されている。「である」と「べき」の連関がそれである。だから副題は、「「である」と「べき」の交差する世界」となっているのだという。
 本書の基本姿勢をご紹介するだけで、ここまで説明を長く使ってしまった。もちろん議論の内容はそれぞれの方がお読みくださるしかないのだが、まずは観念論からとりかかり、因果性の問題を、そしてヒュームにかなり熱い議論をもちかける。本書のよいところは、シッテルン博士という架空の教師を持ち出して、著者がかなりおどけて話を展開しようとするところもそうだが、博士の、つまりは著者の、好みや主張というものがはっきりと打ち出されているところである。ヒュームの考えには賛成しない。ただ、ヒュームの議論にはリスペクトを払う。だからカントももちろんだが、多くの議論の足がかりになっているのだ、ということを惜しげも無く示すのである。
 因果とくると、必然という考え方もある。誰それの思想を紹介する、というのでなしに、ある概念とそれから現れる問題への格闘ということで、哲学的な問いとそこからの思索というものの現場を、随所で十分楽しませてくれる。ときに、伝統的な用語でなく、著者独自の言い回しも交えてくるが、その都度その断りを入れているから、読者はそれほど戸惑うことはあるまい。
 肝腎の「である」と「べき」であるが、私たちの日常の中で、事実がこうであるから、そうするべきである、という発想は確かにありがちである。だが、哲学は何らかの普遍性を要求する。果たしていつでもそうなのか。すると、「である」とは言えるのに、そこから「べき」には決してつながらない言葉の使い方というものも幾らでも出てくる。そう。英米哲学では、言葉の使い方の分析がひとつ重要な領域であったのだ。だが、そうした思想の紹介の書が、えてして、哲学者のだれそれはこう言った、それに対して誰それはこう反論した、というふうな人間ドラマのようなものを舞台に呼びがちであるのに対して、本書は純粋に問題を俎に載せる。お手軽な哲学史の説明とは訳が違うのである。
 組織的に思想を構築しようとするのではない。けっこう気ままに、いろいろな問題を横断しながら、著者自身の考えはなんとか伝えようとしている。それが哲学の結論になるわけではないのだが、ひとつの見解を提示することは、やはり哲学を営む者の責任感の現れなのであろう。そのとき「べき」と「である」には元来結びつきがあるだろうこと、しかし「できる」ことが「べき」には前提されていることなどを、ひとつの足場として、次の射程を狙おうとしているだろうか、と思えるのだった。
 360頁を超える新書は、内容共々ずっしりと重い。だが、敢えてひとつだけ苦情を申し上げる。本書は組織的な構造をもたず、かなり自由に漂流することもある語りがある。索引が欲しかった。後から、どこに定義があったか、議論の本筋はどこか、顧みたいことがあるのに、それができないのである。あと数頁だけ、増やせなかっただろうか。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります