本

『聖書の解釈と正典』

ホンとの本

『聖書の解釈と正典』
関西学院大学キリスト教と文化研究センター編
キリスト新聞社
\1500+
2007.3.

 実はだいぶ以前から買いたいリストに挙げていたのだが、諸事情で入手したのは、発行してからなんと15年も経ってからとなった。研究センター編となっているが、表紙には人名も挙げてあり、辻学、水野隆一、嶺重淑、樋口進という、ここでの発題者がはっきりさせてある。2006年の公開研究会での発表とディスカッションの様子が書となったということである。「キリスト教が現代の様々な問題に取り組み、発言していくときに、聖典である聖書の読み方がどう機能掏るのか、あるいは機能していくべきかを考えよう」という共同研究のひとつの成果であると言えるだろう。
 そのためには、つまりキリスト教が「生きた宗教」となるためには、「聖書を新しく読み直す作業」が必要であるという。それは「聖書を読むことの意味を自分で捉え直そうとする努力」を私たちに要求するものである。できるだけその会合の生々しい雰囲気を伝えようとしている一冊であり、匿名の形で登場しているが、一部の質問者たちはなかなか意義ある質問を投げかけている。
 もちろん議論は直にお読み戴くのがベストである。ここでは、四つの研究会の発表の題だけをまずご紹介しよう。
 第1部は、聖書の「読み」を問いなおす。研究会は二つで、まず「聖書――歴史的読み方の限界と可能性」、それから「聖書――文芸批評的アプローチの挑戦」である。第2部は、正典を問いなおす。研究会はこちらも二つで、先ず「イエスか正典か?――「正典」としての新約聖書解釈をめぐって」、それから「聖書の再解釈――聖書は「正典」か」となっている。
 読み方や解釈という問題になると、どうしても、そのテクストの成立の問題と、それをいまここで読む読者の問題とが関わってくるだろう。哲学的にその解釈を説明することももちろん可能なのだが、ここでは「聖書」に特化した形で、そこに「信仰」や「生き方」が関わってくるものとして検討されることになる。当然、聖書というものそのものの成立が問われなければならないが、これは近代聖書学でかなり探究が進んでいる。
 聖書は、ひとつの文献に過ぎない。だが、そこから信仰の生き方を受け取る人がいる。発題する先生方も、どのような形であるか知れないが、信仰の域の中にいるのだろうと思う。聖書研究者の中には、マニアックなほどに聖書をとことん追究し、詳しく何でもご存じなのに、自分は信仰者ではない、と宣言する人もいる。その心の中は、他人からは分からない。だからここでも、研究センターの皆さまがどのような信仰をお持ちなのか、お持ちで亡いのか、それについては分からない。そういう役割の方々も、必要なのである。だからこそ、聖書について偽りない何かを提示してもらえる。思い込みから、聖書を用いて人を騙すグループも現にあるのだ。
 しかし、聖書の研究が、素朴な信仰を打ち壊す可能性も、ないわけではない。イエスはこんなことは言わなかった、こんなことは起こらなかった、という結果を聞いて、動揺しない信仰者がいるのだろうか。それでもなおかつ「信仰する」というのはどういうことか、それが現代の教会では重視されるひとつのポイントでもあるだろう。
 本書は、その「信仰」については問わない。ある質問者が、「信仰」による読み方を自分はするのだが、と告げると、そういう読み方があってもよい、否定はしない、というような回答がなされていた。やはりこの研究会では、「信仰」を語るつもりはないことが分かった。
 それにしても、聖書の実態が、いま言われている研究において全部明らかになっているわけではない。また、「聖書のみ」としたプロテスタントの宣言を重んじることはもちろんひとつの大切な道なのだが、それを偶像視するような扱いについては、私も賛同できないものである。「聖書はすべて正しい」という意味は、たとえば科学的な見方において正しいという意味に受け取る必要は全くない、と私は捉えている。そこにはまた「正しい」という概念が、人により異なることにも起因しているズレが起こる。「神は真実である」というところをベースにするものとして、私は受け止めているが、それも人により異なるだろう。「無謬説」のサイドを、単純に、数学の教科書が証明する定理のように「正しい」という受け止め方をしている、などと言ってリベラリズムに立つ人が、しばしば上から目線で嗤う。だがそういうものではない、と私は思う。
 健全なバランス感覚が必要であるし、自分を「正しい」と見せるために、気の合わない人々を嘲笑するような態度をとるのはよろしくないと思う。だから、聖書を研究する人には、あくまでも事実を調べて探究してもらいたいと願う。そもそも「聖書」なるものが、本書にあるように「正典」としてどのように成立しているか、ということを考えるだけで、いったいどの写本が真理であるのかなどを決定することは不可能なのだ。また、オリジナルになかったから無意味だ、というような決めつけをする人も少なくないが、本当にそうなのだろうか。オリジナルを書いた人だけが神の思いを記すことができて、後から付加した人には神とは関係のない人間の思想を入れた、という区分けが、どのようにして保証されるのだろうか。もちろん、正典が一定の会議を通してかなり後に決められたという歴史も考慮すべきであるし、当初の弟子たちが「正典」をつくろう、などという意図をもっていたように思えないという声があるのも、そうであろう。
 私たちは、なぜか「正典」がある世界に生まれてしまったのだ。「正典」そのものが、偶然的なもの、とまで言えるかどうかは別として、私たちが思いこんでいるほどの「正典」の概念に基づくものではないのかもしれないのだ。
 それでも、問い続ける。分かる資料を駆使し、聖書のあちこちの描写を比較する。研究者の役割は大きい。その上で、信仰者は、聖書を自身の命の言葉として読むことができるのだ。本書のサブタイトルは、その意味でも有意義な宣言をなしていると思う。
 開かれた「読み」を目指して




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります