『オウエンのために祈りを(上)(下)』
ジョン・アーヴィング
中野圭二訳
新潮社
\2300+,\2400/
1999.7.
オウエン・ミーニーの言った、「神様はきみのお母さんを奪った。ぼくの手が道具になった。ぼくは神様の道具なんだ」という言葉がやはり有名であろうか。
キリスト教関係方面からのお薦めがあって開いた本である。事件は、少年の頃の野球の試合の中で起こる。このオウエンという子が初めてバットに当てた球が強烈なファウルボールとなり、物語の語り手であるジョンの母親を直撃し、母親はそのまま亡くなるのだ。最初の方でのショッキングな事件は、案外すぐには出てこず、私はいつそれが起きるのか、忍耐しながら読んでいた。
ジョンがすべてを物語る。そのジョンとオウエンとの出会いや子ども時代の経験が、様々なエピソードと共に、これでもか、という程に綴られるのである。
オウエンは、特別な子だった。とにかく小さい。また、裏声のような奇妙な声を発する。身体的にはそうであったが、頭脳は明晰だった。そして、強い「信仰」をもっている。
そう、この「信仰」が物語を貫いており、表面的にもたくさん、また深く描かれるのである。そのため、本書は日本ではそれほど人気のあるものだとは言えない。だが、アメリカでは違う。ベストセラー作家の中の、代表作のようにさえ見られる作品である。
どこの教会に行くか、教会を変わるのか、そうした話題がしつこく繰り返されるし、教会の中での出来事、特に聖誕劇については、どうしてここまで、と思われるほどに詳しく描かれる。「どうして」というその疑問は、最後に解き明かされることになるので、ここでは追及しないようにしよう。
それにしても、どこからどう書いたらこの物語をお伝えできるのか、よく分からない。先ほどのファウルボールの件はもちろん十大である。また、そこからジョンの母親の過去なども語られる。オウエンも、その母親には女性的な魅力を強く感じているし、世間の人々も、思わず振り向くような美人でグラマーだというのである。そして、ジョンは自分の本当の父親を知らない。もしかするとこの人か、と母親の近くにいる人を見るが、確証はないし、教えてももらえない。
また、オウエンの親は御影石採石業、また墓石をつくる仕事をしており、オウエンもそうした腕を持っているのだが、作ったマグダラのマリア像は両腕を切り落とされ。爪を切断されるアルマジロの剥製や、ジョンの母親が裁縫のために使っていた人台(服を着せるボディだけの人形)がどうして幾度も話題になり、本の表紙にそれらだけが描かれているのか、ということも、象徴的で謎深い。
何かしら引っかかりをもたせることは、一気に最後のところで全部繋がってくる。だから読者は、何かもやもやとした気持ちを懐いたら、とりあえず心に温めておくとよいだろう。
学校で、小さなオウエンをバスケットボールのように高く掲げる日曜学校の遊びから、本当にバスケットボールの試合でそのオウエンにダンクシュートをさせるなどの奇妙なクラスの盛り上がりも、描かれた意味がきっとある。
ヘスターという、わずかに年上の女の子も不思議な魅力をもっている。「すけべのヘスター」と呼ばれ、やがてオウエンと親密になるのだが、そこに性的な関係があるかどうかは、ジョンの目からはついに分からない。これもまた、最後のところで驚かされる事柄とつながってくる。
ジョンは、些か学習困難を抱えている。オウエンはこの友をいつも助けてくれた。宿題もだし、後に戦争にジョンが行かなくて済むように、驚くことをオウエンはしでかす。ジョンはそのことをいろいろと考えるが、オウエンは戦地に向かう。
ヴェトナム戦争を真っ向から描き、戦地でも様子も知らせるし、若者たちがそれに反対したアメリカの情況や人々の反応なども克明に描かれている。この戦争についても、やたら必要以上に語られているかと思いきや、やはりこれも最後に大きな意味をもってくる。
このジョン、物語の語り出しが何であったか、読者はいつしか忘れてしまうかもしれないが、私は心に刻んでいた。オウエンのことを一生忘れないと言うのだが、それは「ぼくが神を信じる理由が彼にあるからなのだ」と強く言ったのだ。それは、キリストに生きているなどというつもりだからではないし、それはむしろ狂信者の言うことだろう。聖書についても詳しく知るわけでもない。だが、物語の初めの2頁は、この信仰にまつわることばかりが記されている。そして「ぼくに神を信じさせたのはオウエンである」とその部分を結んでいる。
戦後のアメリカの様々な出来事、あのカーター大統領暗殺も、物語に取り込まれる。時に社会批評をしているようにも見えてくるし、文化を論じるようなときもある。それらを、キリスト教信仰の立場から、オウエンは時に説教のように、蕩々と聖書や神について語る。やがてジョンも、その意味を反芻するかのようにいながら、最後の場面で、神を信じるに至ったであろうことが推察できる。そして、オウエンのために祈りを捧げるのである。
物語は、時折時間系列を自由に動き回る。思い出に浸るかと思えばいまの時に戻り、またいつしかかつての話を語り出す。読者は、読んでいるその「いま」の位置に時折気をつけているとよいだろう。だが、いかに注意していたにしても、アーヴィングの仕掛けた凡ゆる伏線を見破って結末を予知することはできないだろう。否、何かしら予感はするかもしれない。だが、タイトルを回収するときには、もはや作者の掌中に握られた自分の姿を見出すしかないのではないかと思われる。
キリスト教を信仰している者であるのならば、本書をきっと十分に味わうことができるだろう。そして、教会というものの些細な描写も、ズキンとしながら受け止めることがあるのではないだろうか。下巻に於いてであるが、登場するメリル牧師について、「メリル牧師にとって宗教はただの『職業』なのだと思った」(p351)と言い、その心には「新しい『奇蹟』の入る余地がない」(p351)としている。また、「どれほど多くのすばらしき指導者たちが、『神の』欲するものがわかると言っているか! 面倒を起こすのは神ではなく、神を信じると称し、神の御名のもとに自分たちの利益を追いかける、わめき声の連中なんだ!」(p355)とは耳の痛い話ではないか。
ジョンは、父親についても真実を知るが、同時に信仰についても目覚めることとなる。そして、オウエンが好きだった短い祈りの言葉を繰り返す。――「御使たちがあなたを御国に導いてくださいますように」
最後に触れておく。本書には教会の場面が多く描かれるが、そのときしばしば、賛美歌が歌われる。日本の『讃美歌』をそのまま使って表されているため、幾度もその曲が頭に浮かび、思わず口ずさむことがあった。キリスト者で、かつての『讃美歌』をご存じの方は、分かる限り歌ってみたらいいと思う。登場人物たちも、大きな声でそれを歌ったのだ。そして、一つひとつのそれらの歌詞が、物語の場をつくり、流れを方向付け、意味を指し示すことになるであろう。美しい曲が流れる中で、私たちもオウエンのために祈りを捧げることになるであろうと思わずにはいられない。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド