主はただ中におられる
チア・シード
ゼファニヤ3:14-20
なんとも厳しい裁きの言葉を、ここまで連ねてきた預言者。ゼファニヤ書は小さな書に過ぎませんが、謎が多く、いろいろな解釈を呼んでいます。ヨシヤ王の時代から後のものなのでしょうが、ヨシヤの宗教改革をも後押しするか、牽引するかしたとも見られ得ます。いっそ捕囚の後の視点から記された、と考える学者もいるのだそうです。
その締め括りを、今日は開きました。激しい裁きの言葉が並んだその結びは、希望へと続きます。イスラエルよ、喜べ。イスラエルの王は「ただ中におられる」のです。この勇者が救いをもたらすのだと言い、主がイスラエルを祝福することを約束します。愛と喜びの歌を以て、いま新しいイスラエルを迎えるのです。
散った民は集められ、敵は滅ぼされます。事実、アッシリアもバビロンも、巨大な帝国を誇った権力は、もう歴史の中には欠片もないのです。しかしイスラエルは残りました。ユダヤ人はいまを生きています。足の萎えた者も救いの中に置かれており、ユダヤの民はひとつに集められます。恥は誉れに変わり、その名は高められるというのです。
主はイスラエルを呼び集め、連れ戻します。繁栄が回復されるこの預言は、なんとも明るいビジョンではないでしょうか。主の日が来て悪が一掃された後は、かくも祝福に満ちた世界が現れるものなのです。だからこそ、主が神の国をもたらすというわけです。ここに、イエス・キリストが与える新たな救いは、どのように関係してくるのでしょうか。
キリストは私たちのただ中に来られたではありませんか。「愛をもってあなたを新たにし」たではありませんか。そうやって私たちは「呼び集め」られたのでした。私は足が萎えていました。自分では歩けず、立ち上がることもできませんでした。私の名は自分で高めることができず、ただキリストの故に、キリストによってのみ、高められるのです。