ただ中にいる勇者

チア・シード

ゼファニヤ3:14-20   


「主が隠し守った」というニュアンスのある「ゼファニヤ」という名の預言者が、ヒズキア王の子孫という家柄から現れました。ヨシヤ王の時代の預言だといいますが、ヨシヤの宗教改革はまだなされていない時期のようです。人々の考え方や行いは、よくない方向にありました。主の裁きの日が来て、諸国民とエルサレムが裁かれるべきだと告げています。
 
そして今、娘シオンとしてのイスラエルが回復させられます。喜べ、との希望を正面に出してきます。暗い世相に光をもたらすような言葉です。「主は、あなたに対する裁きを取り去り」となると、ひとつ壁は越えました。「イスラエルの王なる主はあなたのただ中におられる」と、二度繰り返される言葉が力強く投げかけられました。
 
エルサレム神殿のことを想定しているのかもしれません。神殿があるではないか。祭司たちが律法を踏みにじり、不正と悪にまみれている現状を批判しつつも、主そのものへの背信や偶像礼拝のことを挙げている様子はありません。人の悪が非難されているのです。曲がりなりにも、神を知っているのですから、預言者は呼びかけます。
 
「ほら、ここに神殿があるではないか。神がいるではないか」というように。「救いをもたらす勇者」であるこの主が、ただ中におられるのです。主の愛が、すべてを新しくします。但し「愛をもってあなたを新たにし」というところは、マソラ本文では、「愛のうちに沈黙し」、あるいは「今は沈黙していても」などという読み方ができるそうです。
 
イスラエルの民を「連れ戻す」と言うのは、バビロン捕囚の後に加えられた可能性があると見る人もいますが、もっと霊的に捉えてもよいかと思います。現実の繁栄を描いているようではありますが、主への信仰と主からの祝福が、ここに盛り込まれていると見るのです。そこには、いまの私たちをも巻き込むだけの力があるに違いありません。


Takapan
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