共に死に、生かされる

チア・シード

ローマ6:1-5   


「私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。」いったい、この実感を私たちはどれほどもっているでしょうか。パウロのこの情熱は、どこまでローマの教会に伝わったのでしょうか。淡々と綴られているようであっても、手紙の文章には、重い軽いといった言葉の違いがあるものです。
 
そこは生の人間たちの命が混じり合う場所。手紙は論文ではないわけです。多少私たちに意味の分からないところがあっても、あまり気にしないことです。ここさえ伝わればよい、それでよいのです。「それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。」これを噛みしめましょう。
 
もちろんここで、復活は大前提です。コリントの教会へ向けた手紙のように、復活するとはどういう謂れであるかを長々と語る必要はありません。その暇もなかったことでしょう。パウロはここでは、罪に対して死んだ私たちのあり方を軸としています。キリストと共に死に、新しい命に生きる。もはや罪に支配された生き方ではなく、罪は無力となりました。
 
私たちは、「キリストの死にあずかる洗礼を受けた」のでした。洗礼が如何に大きなことであったのか、私たちはもっと驚くべきです。洗礼はただの形ではありません。それは死をもたらします。それまでの人生に終止符を打つのです。パウロは確かに、洗礼という言葉に含まれる「溺死」のニュアンスを大切に守っているのだと思います。
 
洗礼そのものが命なのではありません。洗礼により死ぬのです。それから先は、キリストの復活による命が与えられるのです。だからそこには信仰が必要です。罪の中に留まるわけにはゆきません。そこから始まる新たな世界を迎え入れましょう。キリストと共に、あなたは、死んでいるでしょうか。あなたは、生きているでしょうか。


Takapan
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