もうここに救いがあるではないか
チア・シード
ローマ10:5-13
「信仰による義」と、口による告白と、この二つをパウロが並べて提示しています。それはただ「救い」への道です。何もかも詳しく述べたわではないけれども、福音のエッセンスを効果的に伝えていると言えるでしょう。律法を守ることで生きる、とするのがモーセの与えた救いであったとすると、新しい救いはキリスト中心だとパウロは言うのです。
「義」とは、もちろん正しいこと、正しくされることを言いますが、場面によっては、ずばり「救い」と読むと理解しやすいことがあります。特定のシチュエーションを決めてしまう必要はありません。パウロは頭の中に、いまユダヤ人のことを思い浮かべているはずです。前章から「肉による同胞」(9:3)つまりイスラエル人のことを持ち出しています。
そのユダヤ人が、このたび捨てられたというわけではないのです。パウロが如何に異邦人の救いへと仕向けられ、これまで当たり前のようにユダヤ社会を縛っていた、イスラエルの律法による救いとは別の救いの道をもたらしたか、という点にも拘わらず、ユダヤ人自体が救いから否まれ拒まれたことには、決してならないとするのです。
キリストによる神の救いは、ユダヤ人が思い込んでいた、懸命なる律法遵守のみの生き方を超えました。キリストを信じることによって救われるのです。キリストは、限りなく高いところから地へ降りてきました。それどころか、死まで味わって、人よりも低いようなところまで行き着いてしまいました。それでも、栄光に包まれた御子なのです。
パウロは申命記30:4を引き、キリストに右往左往させる必要はないのであって、神の言葉が他のどこかにあって、いまここにないからどうしようもない、などと言い訳をしてはならないことを訴えます。もうここにあるではないか。もう心の中にあるではないか。口から言葉を発してみよう。信仰の言葉を放ってみよう。そう促すのです。
「イエスは主である」と言うのです。「神がイエスを死者の中から復活させられた」というように、信じるままに告げましょう。ユダヤ人であれ異邦人であれ、この救いの原理はこれまでもこれからも変わりません。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」のです。ここに福音があります。この福音をさらに伝えよう、とパウロは明日を見据えています。