すぐに

チア・シード

黙示録22:6-13   


すぐに起こるべきことがここに示されました。主はすぐに来る。イエスが地上でしばしばすぐに動いたのと同様に、終わりへ向けてのイエスもすぐに走るのです。その「すぐ」がたとえ千年の時を数えようと、神の中ではすぐなのです。人間の尺度による時間がすべてではありません。神の「すぐ」と人の「すぐ」とは都合良く重なるものではありません。
 
神のメッセンジャーたる天使が登場します。信に基づく言葉なのだ、とヨハネに告げます。筆者であるヨハネが物語の中に登場するという書き方は、いっそう私たち読者をこの歴史の中に加わらせる働きをするように思えます。この黙示録の中に、私もまた出てくるのです。ヨハネが見て聞いたのなら、私たちもまた、見て、聞いたということになります。
 
それは、ヨハネ自身の信仰告白にもなっているし、証しであるとも言えます。私たちは聖書に対して、果たしてこのように告白をしているでしょうか。自分の名前をはっきり出して、これを聞き見たのは某である、と告白しているでしょうか。「私たちは」と陰に隠れようなことをせず、誰がなんと言おうとこの「私は」と言葉を発することが必要です。
 
ヨハネは思わずこの天使を拝もうとして諫められました。たとえば聖書を信ずると言っても、聖書という本を拝もうとしたら、厳しく諫められることでしょう。拝すべきは、生ける神その方です。神の言葉には命があるし、神の言葉をもたらすものは限りなく尊いのですが、礼拝すべき対象ではありません。すり替えは巧妙に忍び寄ります。
 
神を礼拝せよ、という指示は大きな意味をもちますが、こうして受けた神の言葉は、秘密にすべきではありません。時は迫っています。「すぐに」という切り込み方がここで生きてきます。特別なる時としてのカイロスの時がすぐそこにも待ち受けています。神はもう、すぐそこの戸の向こうにいるからです。そして思わぬ時に現れることでしょう。
 
この時の迫りにおいては、もはや定めはひっくり返ることはないでしょう。不正は覆らずますます不正を増すばかり。恵まれた者はますます恵まれることでしょう。しかし、不幸や苦痛の中に置かれた人には、神の名を呼べば大いなる逆転があるはずです。でも、戸が開いてしまえば、もう時は遅く、悔い改めのチャンスはもう残されはしないでしょう。


Takapan
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