666は誰かと問うよりも

チア・シード

黙示録13:11-18   


ローマ帝国に押さえられているばかりか、信仰の故に殺されるまでに至った時代がありました。実のところ聖書が執筆されていた時代は、その迫害も最悪ではなかったのです。それでも、皇帝ネロの時には無実の罪で殺される信徒が大勢いたと言われています。信ずる者が何故に苦しまねばならないのか。そんな疑問が飛び交い、強くなってきたことでしょう。
 
キリストが苦しまれたのだよ。手紙の中ではそんな慰めも投げかけられました。今私たちも時折同様の声を聞くように思います。神がいるならどうしてこんな悲惨なことが、と。でもそれとは比較にならぬほどに、当時は酷いことが起こっていました。酷い目に遭わされていました。黙示録がネロのことを書いているなら、本当に酷いことでした。
 
ネロだと断定はできないにしても、少なくともその有様を知ってからこそ、この記述はなされています。キリスト教徒の迫害を目の当たりにしてなお、信徒の信仰を守るために、励ますために、黙示録は書かれていると思われます。苦難であるには違いないが、耐え忍ぶことで永遠の命を与えられるのだと声をかけているわけです。
 
但し、これらの叙述はやはり幻です。権力の姿をあからさまには言ったり書いたりすることができない世情の中で、なんとかそれを記したいという思いから、象徴的なものを登場させたりほのめかす表現を使うなどしています。その中で、全能の神が、この非常事態に「けり」をつけるまでの過程をたっぷりと示す幻がここにあります。
 
二頭目の獣の正体は分かりません。地上で大いなる権威を示したであろうことは分かりますが、恐らく帝国や王のことだろうと考えるのがせいぜいです。経済活動をその制度でなければ許さないなどというので、それを牛耳り、獣の像をすら崇拝させています。地上で大いなる権威を遺憾なく発揮し、人間たちを支配しようとしています。
 
この獣の数字が666であると謎が出されました。ゲマトリアであることもはっきりここには書かれています。当時の数字は文字であり、文字に数字が当てはめられているために、その文字の表す数を集めれば何かのメッセージになる、というレトリックです。すると666は「ネロ」を指すとも読めるのです。他の歴史的人物も当てはまるという報告もあります。
 
とにかくこれは預言です。記者ヨハネすら気づいていないものを指しているのかもしれません。666の正体は誰かと問うよりも、666あるいは6の数字にサタンを見出す研究も多く、説得力があります。このサタンは、自分が神になろうと目論んでいたというし、サタンは何らかの意味で神を模倣しようとしているようです。
 
だから考えたいのですが、私たち自身もこの666になるか、あるいはその手下になる可能性を秘めているとは言えないでしょうか。自らを神とする者や、そういう試みが、今の時代には多くなってきました。スマホを手にして、全能感を覚えるのもその一つです。これは最悪の罪です。この罪の集まりが、いつでも666をつくり出すことを、私は憂えます。


Takapan
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