自然と喜び

チア・シード

詩編65:6-14   


自然と人間との関わりは、必ずしも牧歌的なものだとは言えません。自然を破壊する人間ということは一旦伏せておきます。自然は、嵐を以て人間を痛めつけもします。実のところ、自然が痛めつけようとしているわけではありません。文字通り「自然に」そうなっているだけです。しかし詩人は、そこに神の意図を見いだします。
 
神が自然を動かしている、というのです。時に、神のそのようなあり方を、詩人は歌います。大いなる自然を、神の力の現れとして描きます。この大自然よりも、神は圧倒的に強大なのです。そもそも神がそれらを創造したのです。海のどよめきとしてそれは聞こえることもありますし、遠く住む人々を従える様も、神の業を知らせてくれます。
 
神は自然をも人間社会をも、支配しています。この神を、人間は称えます。詩人もまた、喜び称えるその集団の中に一人として加わっています。この「喜び」という角度から、美しいこの世界を眺めようではないか、そのように歌います。地が潤うのも、主の業です。人間は穀物を与えられます。人間が植えるものも、つまりは神が造ったものです。
 
神の降らせる雨が、苗を育てます。豊かな実りをもたらす力は、神のものにほかなりません。イスラエルにとり、雨は恵みそのものでした。天から届く神の恵みとしての雨が実りを与え、それによってまた羊も育ちます。詩人はこれを喜びとして捉えます。大地の賛歌は、ともすればアニミズムの響きをもちますが、聖書はそこへは走りません。
 
むしろその創造主をこそ称えるべきだと言います。そこに喜びがある、という表現は曲解されてはなりませんが、造られたものとしての人間が、喜びを覚えるのであればよいのです。全世界が、自然も含めて喜びに満ちているのは、素晴らしいことです。それは、甚だよかった、と天地を創造した創世のときの、神の喜びでもあることでしょう。


Takapan
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