偽りから離れる
チア・シード
詩編5:1-13
偽り、それはすべての信頼関係を破壊するもの。カントが徹底的に排除しなければならないとしたのは、この偽りでありました。人格も関係も、あらゆるものを無に帰してしまうからです。ダビデ本人がこの詩の作者であるかどうかは怪しいとしても、詩人が窮地に立たされていることは間違いありません。
神を見上げ、神を信頼していてなお、どうしようもないところに追い込まれているというのです。これを理不尽だとし、神などいない、とするのは悪しき理性人たる現代的傲慢のスタイルだと言えるでしょう。しかし、神をなおも慕う者にとっても、それではどこかやりきれないものです。
夜が明ける前から詩人は起きて主に求めています。自分を訴える者がいるのでしょうか。あるいは、非のある者として自分を公然と非難してくる者がいるのかもしれません。どうして的はあんなに誇らしげなのでしょう。どうして平然と嘘がつけるのでしょう。こう見つめてくると、これは現代的な問題として取り上げるべきものであるような気がしてきます。
他人など死んでもよいと考えている者。そのためには陥れて構わないと策を持ち出す者。これに刃を向けられている私は、どうすればよいのでしょうか。聖なる宮にひれ伏し、ただ主の顔を仰ぐしかありません。神の信実をこそ慕う魂となるのです。どこまでもそこに留まります。執着と言ってもよいでしょう。否、頼るのです。信頼するのです。
イエスなら詩人の苦境に遭遇したら、どうしただろうかと考えてみます。自分が何をしているか分からぬ、右も左も弁えない迷った羊のような存在だと憐れむのでしょうか。イエスが苦難を受けたのは、神の摂理の実現のためではあるでしょう。それならキリスト者と雖も、イエスと同じことをするべきではないし、同じことなどできません。
詩編の中には、時に激しい報復を願う詩もあります。それがいけないなどと他人事のように言うのは冷たすぎます。報復を神に求めているではありませんか。自分の手で始末をするなどとは言っていないのです。これもまた人間の真実なのではありますまいか。成し遂げるのは神でありますから、あとは神にお任せするのです。
私刑をさせろと神に迫るようなことをしてはいけません。神の手の業に委ねる点では、新約の考えと違いはしないのです。それより身近なところに目を向けましょう。神に身を避ける者がいます。神を愛する仲間がいます。神に身を隠す者らを覆い守るこの神を信頼する祈りを、今朝も明日もささげましょう。神を偽り者とせず、また自分も偽りを避けるように、と。
