先ず自分のことばかり祈る理由
チア・シード
詩編57:1-12
この辺り、はっきりと「ダビデの詩」と掲げられている詩が多く並んでいます。その多くが、開口一番、何々してください、という叫びから始まっているのが目を惹きます。神に向かってダビデが祈るとき、先ず自分の願いをぶつけるのです。でも私たちは、祈りの始めに、御名を崇めます、とか感謝します、とかいう言葉を発することが通例です。
なんだかお利口さんのお祈りのようですが、このように祈りなさい、と主イエスが教えた主の祈りがそうなっているからでしょう。ダビデはお行儀が悪いのでしょうか。今回は「私を憐れんでください」を二度先ず繰り返しています。いきなりです。神の名を称えるなどの形は全くとりません。その標題は、「ダビデがサウルを逃れて洞穴にいたとき。」
なるほど、それほど逼迫した危険があるのでしょう。文字通り必死だったダビデにとり、とにかくまず主に願うしかなかったのかもしれません。「私の魂はあなたのもとに逃れました」と続け、「あなたの翼の陰に私は逃れます」と告白します。「私のために成し遂げてくださる神」という表現は、ダビデの神に対する強い信頼の証しであるように見えます。
サウルの軍は「人の子らを貪り食らう者たち」と呼び、ダビデを「踏みにじる者」だと言っています。詩の中央に来て、ようやく「神よ、天の上に高くいませ。/あなたの栄光が全地にありますように」と主を賛美する声が聞こえます。遅すぎないでしょうか。何故今になって神への賛美を、思い出したように付け加えてくるのでしょうか。
彼らの仕掛けた罠に打ち沈むものの、その中に落ちこんでしまうのは彼らの方だった、とダビデは信仰に立ちます。神の助けがあったればのことです。だから「神よ、私の心は確かです。/私の心は確かです」と、やはり自分の身に起こっていることを神に届けます。まるで自分のことにしか関心がないかのようにすら見えます。
そして「目覚めよ、私の栄光よ」と、ついには栄光が自分の上にあるところにまで行き着きます。主に感謝し、ほめ歌うのだと天を仰ぎ、主の慈しみとまことが空間のすべてを治めることを告白します。そうして主の「栄光が全地にありますように」と結びます。ダビデは常に主の方を向いていたのです。わざわざそれを口にする必要はありませんでした。