因果の制約から解放されている
チア・シード
詩編4:1-9
わが義の神。救いをなす神。祈りと呼びかけに応えよと求めているのではありますが、私を苦しみから解き放してくださった、とも言っています。先取りのようにも見えますが、すべて同じ一つのことだと捉えることもできるでしょう。ダビデの詩とされていますが、神への信頼の様子は、正にダビデらしいものだと思われます。
しかしまた、視点を換えて「人の子ら」にも呼びかけてきます。空しいこの世のものを求め、頼りにするとなると、神の栄光を辱めることになるのです。主への忠実さ、信頼こそ尊いものです。「怒りに震えよ、しかし罪を犯すな」とは至言です。私たちは怒ってよいと思います。怒らねばならない時があるのだと思います。
しかし、それが主とは別の方向を見るような、的外れなものとなってはならないのです。怒りに支配されたままになってしまうことはよろしくありません。これは、人々を見つめて呼びかけているものと思われますが、一方で、ダビデが自身への戒めのように言い聞かせているようにも考えられます。詩編にはよく「わが魂よ」との言葉が見られます。
ここではそう言っていませんが、己れへの忠告が神から及ぶということも、詩人ならではの感性なのでしょうか。主の恵み、主からの光を、人々は求めています。けれどもダビデは、それをすでに得ています。いまこれほどに喜びが満ちあふれているというのです。私はいま平安のうちに眠ることができます。主だけが、その平安を与えてくださいます。
この信頼の内にあることが、主からの恵みにほかなりません。国民へこのメッセージをもたらしつつ、それは王自身へ言い聞かせています。祈りを聞いてくださいと願いつつ、すでに苦しみは取り払われたと宣言しています。神の内では時間的制約を受けないはずですが、そのようにダビデの心の内でも、その信仰は時間を超えていたのです。