教会の中でこそ辛い人のために
チア・シード
詩編42:1-12
次の43編と一つだったのではないか、とも言われます。「私の魂よ/なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。/神を待ち望め。/私はなお、神をほめたたえる/「御顔こそ、わが救い」と。/わが神よ。」このフレーズが、42編に二度、43編に一度現れます。これが歌われていたことは標題から確実であつて、43編には標題がありません。
詩人の置かれた情況はとても苦しいようです。「鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように」との描写は、決して牧歌的な平安のイメージを与えるものではありません。のたうち回りたいほど苦しいのです。主を「あえぎ求める」というのがどれほどのものか、私たちは体験しているでしょうか。もう主しか頼るものがなく、死との間は一枚皮です。
「昼も夜も」安らうことがありません。本来なら敵ではないはずの人々により、「あなたの神はどこにいるのか」と「日夜」言われ続けているのです。同じ神殿に、つまり私たちでいえば同じ教会へ集っている人たちから、お前はそれでも信仰者なのか、などと貶されているようなものです。いつも喜べ、と聖書にあるのにその辛気くさい顔は何だ、と。
今日はクリスマスだ、祝会を楽しみたくないのか。そんな圧力をかけられてくるならば、周りの「クリスチャン」は、もうすっかり敵です。詩人は自分の魂に呼びかけます。こうした苦しめる者たちの言葉に痛めつけられながらも、自分はなおも神をほめたたえるのだ、と。昼夜、日夜、といった言葉が目立ちます。いつも、よりも連続性を感じます。
かつては祭りに、つまりは教会に仲間と行く喜びを知っていました。いま打ち沈んでしまったことで、教会には相応しくない者と呼ばれています。でも「生ける神への祈り」があるし、「主の救い」がここにあります。骨砕かれ虐げられていても、神を待ち望む信仰はなくなってはいません。「生ける神に私の魂は渇く」ことが、その信仰の証しなのです。