大空と神、そして人間
チア・シード
詩編19:1-10
擬人法などという用語を意識していたかどうか、私は知りません。箴言では、知恵なるものが自在に活動し、意志をもっています。あるいは、神をこの知恵という名で登場させているとの感覚があるとするならば、擬人法というよりも、初めからあるものを具体的な姿に見立てて描いている、と言ったほうがよいかもしれません。
しかし、詩人の見ている天は天、空は空です。しかも、並べ立てられているとき、天も空も同じものを指しているはずですから、それぞれを具体的な別々のものとすべきではありません。知恵による言葉が世に伝達され、太陽は地を普く照らします。大宇宙の壮大さは、神の大きさを物語っていると言ってよいと思われます。
神を思うに、こうした太陽や天が昼なる世界すべてのありさまを思い浮かべるとよいかもしれません。私たちには、空は見えます。太陽も分かります。そこから、目に見えない神の絶大さをイメージするのです。それも、空のように、太陽のように、ということでは尽くせません。その程度のものではない、という否定形を使うしかありません。
また、それらを超えて、という前提の中で、神を崇めるしかありません。こうした前提の上で詩人は、主の与えた理法へと心を向けます。律法・定め・諭し・戒めと表現を替えても、神から人へ与えられる言葉として、特に何も違うものではありませんし、私たちの側がどう受け止めるか、で言い方を変化させているくらいのものなのでしょう。
人の魂は生き返らされます。ということはつまり、神なしでは魂は死んでいたのです。人は無知であり、心憂い、目は暗くなってしまっています。この力を注いでくださる神を畏れよ。主の裁きに委ねよ。詩はこの後、罪や傲慢の過ちへの自覚から、神の前に清くあることへの願いへと移ります。こうした美しい対照から、神を思う者でありたいと思います。