男を前提としているが
チア・シード
詩編128:1-6
幸いな者。それは、詩編第1編の冒頭にありました。詩編全体を象徴するかのように掲げられた宣言でした。ここへきて、初心に返れとでも言うように、「幸いな者」がまた歌われます。主を畏れ、主の道を歩む者のことだそうです。定義としては、これだけ。ほかに余計な説明は要りません。神に対して生きること、人間に必要なことはそれだけです。
そこにこそ、幸いというものがあるというのですが、ここへきて、男中心であることを殊更に持ち出しても、仕方ないのでしょうか。幸せが、男家長の特権であるかのような書き方が当然のものとして前提されています。やはり、それでよかったのかどうか、問いが投げかけられて然るべきではないかと思うのです。
あなたは幸いだ、あなたには恵みがある、その祝福は、一家の長たる男のものだ、と言っているだけなのです。そうとしか聞こえないのです。もちろん、その男が幸いであれば妻も幸せであるかもしれません。子どもたちも幸せかもしれません。いろいろな家族がありますから、それがすべてとは限りませんが、その蓋然性が高いとすることは可能でしょう。
けれども、すべてが男の目からの風景であってよいのかどうか、やはり問い直すべきだと思います。主を畏れる男がこのように祝福される、という詩は、男のためのものでしかないのです。主があなたを祝福してくださるように、という祈りのような言葉も、すっかり男だけへ向けてのメッセージとなってしまいます。
今や、これは男たちのみへのメッセージではなくなりました。こうした家族をもたない、あるいはもてない男もいます。万人に向けての福音というのは難しいものでしょうが、ただ命ある限りエルサレムの繁栄を見ることができる、と信じていられたらよい、などと考えています。それぞれの人が、自分へ向けての言葉だと受け止められますように。
子や孫についての言及もありますが、自分の腰から生まれる子孫でなくても、次の世代、あらゆる世界の子どもたちの姿を見つめる眼差しを含むものとして、大切にしたいものです。イスラエルの上にあれかし、と願う平和がどんな平和であるのか、これも気になります。そこには私たちも間違いなく参与しているはずだからです。