夢に終わらない夢

チア・シード

詩編126:1-6   


ペルシア王キュロスの政策により、バビロンに捕囚されていたエリート層を中心とするユダヤ人たちは、祖国に戻ることが許されました。ユダヤ人はこれでキュロスを、救世主とさえ崇めました。恐らくその出来事のことを歌っているものと思われます。再びシオンに還ることができたので、まるで夢を見ている人のようになった、というのです。
 
笑みが沸き、喜びの歌が戻ります。主なる神に対する一途なつながる思いが、これほど長い歴史を通して持続していることに、改めて驚かされます。なんといまなおそうなのですから。創世記は、いつこの民族のアイデンティティになったのでしょう。出エジプト記の方が、モチベーションのためには大きな意味を有していたかもしれません。
 
長く主の民という自己認識が、イスラエルを支えていました。あるいは、この帰還がリバイバルを起こしたのかもしれません。やっぱり主は生きておられる。挫けかけた人々の心が、信仰へと目覚めたことは確かです。故郷に戻ってきて、破壊された神殿をなんとかいくらかでも元に戻したいと奮い立つのも当然と言えば当然でしょうか。
 
地元球団を心のどこかで、なんとかならないかと思っていた人が、チームが勝利を重ね優勝に迫ると、とたんにファンとして騒ぎます。突然、実はファンだったなどと言うのは、にわかファンと呼ぶと言い過ぎでしょうが、喜び躍るようになるでしょう。その心理と比較してみるのはどうでしょうか。あまりに卑近すぎるモデルかもしれませんが。
 
まだ再建は始まったばかり。これから、どうかあのダビデ・ソロモンの時代のようになることを祈っています。自分たちは、このときまで涙を流してきました。悲しみに包まれた民族魂は、その種蒔きが、喜びの刈り入れへと進むことへと希望を見出します。災害からの「復興」という希望が、私たちの時代にも幾度もあったではありませんか。
 
涸れたネゲブの川が、たっぷりの水で潤うようにしてください。この願いは、一方では種蒔きの厳しさが、ついに大収穫となって喜びに満ちることを夢見るまでに成長しました。かつては信仰の中にあったとしても、しょせん夢のような話でしたが、私たちの希望の夢、つまり神の国の到来は、夢であると共に、ただの夢には終わらないと励まされます。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります