人の歩みを定めるお方
チア・シード
箴言20:24-30
力は若者の誉れ、白髪は老人の輝き。敬老の週にここは目に留まることでしょう。でも、老人の話が主軸ではないと思います。様々な知恵が並び、しかしひとつの「信」が、辺りを包んでいます。人の見たままの思いや感情がすべてを決めるものではなく、主の知恵というものを知りたいものです。人が軽々しく思いつきで決めることへの強烈な戒めです。
地上の王にその知恵があれば、正しい裁きがこの世でもなされるでしょう。人は、心の隅々まで探られるからです。ここでいう「王」が人間のことでよいのかどうか、それは断定できませんが、やはり主なる神こそが真の王であると考えるべきでしょう。その王たる姿は、慈しみとまことに満ちています。人をそれぞれに生かす慈しみとまことです。
若者に対しては、白髪という人生の経験と時間とを求めるわけにはゆきませんが、力という強さを有していることが言えるでしょう。老人に対しては、ありあまるほどの力を発揮することは期待できませんが、長く生きてきた証しとしての白髪が、その頭には輝いています。痛い経験もあるでしょう。打ち傷を負ってきたにちがいありません。
でも、その打ち傷が、心の悪をその都度正してきたことでしょう。腹の隅々まで、そうやって清められてきたのです。しかも、その打ち傷を私たちに代わって担った方がいた、ということを聖書を教えています。その方の打ち傷によって、私たちは癒やされたのだ、と。そう、あの主の僕の姿です。箴言の記者は、それを脳裏に浮かべたのでしょうか。
それは分かりませんが、ここにいる読者は、主の僕を頭に浮かべていることだと思います。読者自身の歩みを確かなものとしているのは、このお方であることを、改めて感じ入りたいものです。自分の道を自分が見極めることができ、自分が決めるのだ、というような愚かな思い込みをしがちな近代人は特に、とくとこのお方を見るがいいのです。