イスラエル史の分権構造

チア・シード

ネヘミヤ9:9-21   


事ある毎に、イスラエル民族は出エジプトの出来事を想起します。あるいは、指導者により想起させられたというところでしょうか。民族のアイデンティティはひとえにこの事件にありました。その後の歴史の中では、むしろバビロン捕囚がアイデンティティを築くことになったとも言えます。旧約聖書もそこで成立していったし、イスラエルの信仰もそこで形作られた訳ですから。
 
それでも、出エジプト事件は忘れられることはありませんでした。これがベースになっている点は変わりません。となると、聖書においてこの出エジプトが大きく取り上げられていることは、まさに聖書が書かれたのが捕囚期であるという傍証にもなります。まだ捕囚が過去になっていないからです。現にそのとき捕囚の最中であったからこそ、まだ突き放して捕囚を歴史の中に描くまでには至らなかったため、専ら出エジプトが民族最大の事件として繰り返し扱われたと見なせる訳です。
 
カナンの地に帰還し、律法に規定された祭を再開できた民が、律法の書の朗読を前にして、その契約を更新しようとしています。レビ人の代表者たちが祈ります。この設定の中に、後の人が詩を挿入したとも見られていますが、ここでは素直にこの場面をそのままに受け容れて読んでいくことにします。
 
主は、民のエジプトでの苦難を知っています。その中での出来事を、イスラエルは過去の確かな歴史の事実として胸に刻んでいます。それがたったいま朗読された律法の記述をまとめた形で祈られます。聖書の重要な歴史や教義は、時に聖書自身による要約で繰り返されます。書かれたときの関心の深さにもよるのでしょうが、ネヘミヤ記の関心は、土地の所有へ向いているようにも見受けられます。
 
出エジプトの奇蹟の記録も、土地所有のために述べられているように見えます。イスラエルの土地へ導いたのは律法だったと言いたげです。律法が民を訓練し、育てたことを確認しようとしています。そこにはやはり政治的な思惑があったと見ることができるでしょう。イスラエルをまとめるため、治めるためのアイデンティティと歴史観、そして律法の正当化ということです。
 
しかし民は不従順であったことを強調します。政治的であるようでいて、しかしここにイスラエルの信仰の真骨頂があります。悪いのは神ではなく、人であったこと。この私です。単にエリートが大衆を導き支配するために神を利用しているという批判は当たらないのです。エリート自身、神の遣わす預言者により戒めを受け、批判を受けているのですから。
 
他方また、その預言者は人民により牽制されます。預言者はエレミヤのように民衆により迫害を受けることがありますが、そのことで、預言者が成り上がることが抑制されているのは事実です。為政者・預言者・人民が三すくみのように囲み合い、その中央に主権者としての神がいます。雲の柱・火の柱と繰り返され、神の臨在が行く道を導きます。神主権の許での三権分立が、イスラエル国家の、まさに「歩み」であったのです。


Takapan
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