アッシリアでなくイスラエル
チア・シード
ナホム1:1-10
ニネベに対するナホムの預言です。歴史を何かしら見つめても、ここではあまり得策ではないでしょう。アッシリア帝国の滅亡を知り、それを神の裁きとしている、という程度のことだけ把握しておくことにします。あとはこの裁き主が、現在をも見つめているということのほうに、思いを向けていたいと言わせてください。
冒頭から「主は妬む神、報復する神」と宣言しています。ユダの側から見ると、敵国アッシリアの陥落の様は小気味よいものでしょう。が、これを主の力によると定めたところが、この預言者の世界観でした。出エジプト記以来、その十戒で示される「妬む神」というスタンスが再現されています。イスラエルを妬むほど、主は民を愛したのでした。
そしてあらゆる偶像を拒むことを表明していたものが、ここでは報復の方へシフトしています。怒るには遅い、しかし罰することを蔑ろにすることはありません。そのため主はユダを罰したのでした。主に対して背を向けたイスラエルの民を、妬ましいほどに愛していたために、アッシリアを用いて痛めつけた、との理解は単純すぎるでしょうか。
復讐するは我にあり。つまり、神が復讐するから騒ぐな、という捉え方は、新約の時代にも保たれていたようですが、正に旧約ではそれが成立していたのです。なかなかここを教会の礼拝説教で取り上げることはなさそうな気がしますが、巧みな表現で示される、こうした裁きの言葉は、私たちではない誰かに向けてのものと受け止められたら、と願います。
ただ私たちは、イエス・キリストの犠牲の上に、その憐れみによって、このような怒りの刃から護られているにすぎません。主に向かって企みをもっていたのは、異教のアッシリアではありません。主を知るユダです。この点を注視していなければなりません。自称としてクリスチャンを名のる者がそこにいるかもしれないのです。